犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

グアム通り魔事件

2013-02-15 22:32:49 | 国家・政治・刑罰

 このニュースを聞いたとき、秋葉原通り魔事件の際に感じたことを思い出しました。人間の思考は、「言葉がない」と感じたとき、言葉が見つかる方向に一瞬にして流れます。そして、言葉がある場所に止まる限り、そこからの論理は簡単に開け、言葉がない地点をあっという間に侵食していくものと思います。容疑者は地元の映画やコマーシャルに出演していたとか、容疑者の両親は離婚して交際相手と破局していたとか、そのような情報に関心が移ると、私は自分の心が楽になるのを感じます。

 報道というものは、このような人間の思考の形に応じて、事件の背景へと上手く拡散していくのが常だと思います。容疑者と被害者という個人から、より広い社会へと視点が移っていくということです。「常夏の楽園というイメージを暗転させた事件の衝撃は大きい」「治安の良い地区が凶行の舞台になったことが動揺に拍車をかけている」「住民は日本人観光客の減少への懸念を語っていた」といった点が中心論点であるかのように言われると、私はやはり自分の心が楽になります。

 なぜ殺された人はその日のその時間にその場所にいたのか、その理由は、そのまた理由はと1つ1つ丹念に遡っていくと、人間は気が狂うものと思います。日本にいる者も、気が狂う当事者の立場に吸い込まれていくものと思います。「なぜ死ななければならなかったのか」という問いは、その死に対して法的な因果関係がないことや、法的責任が存在しないことを超越して、「言葉がない」部分にしか至らないものと思います。そして、目を逸らした人間に見えるのは、お涙頂戴の悲劇だけです。

 「被害者の悲劇はいいから事件の背景を掘り下げるべきだ」という思考は、容疑者の動機を解明することがさも高尚であるかのように論じるのが常ですが、これは単なる理性の堕落だと思います。このように考えたほうが自分が楽だからです。ある日ある場所で突然人生を終えることの不可解に比べれば、加害者の動機など取るに足らないというのが、本来の論理の筋だと思います。私は実際の裁判のシステムに携わっていたとき、犯罪者が理性的な主体であり、被害者は厳罰感情を述べる証拠方法であったことによって、自分の心が楽をしていることを感じていました。

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