犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

姜尚中著 『続・悩む力』より その2

2012-08-20 00:05:42 | 読書感想文

p.185~

 思えば、60数年前まで、日本の社会は戦争によって死と隣りあわせだったのです。なのに、ふと気づいてみれば、死からはるかに遠ざかって、世界有数の長寿社会になってしまいました。そして、死から遠ざかったために、同時に生の尊さもわからなくなってしまいました。

 私たちは普通、人生においていちばん重要なのは「未来」を考えることであり、「過去」を懐かしんだり過去にとらわれたりするのは後ろ向きだと考えがちです。そのため先のほうばかり目を向けてしまうのですが、人間にとって本当に尊いのは、実は未来ではなく過去ではないでしょうか。

 過去の蓄積だけがその人の人生であり、これに対して未来というのはまだ何もなされていない、ゼロの状態です。あくまでも、未来はまだないものであり、無にほかなりません。ですから、過去を大事にするということは、人生を大事にすることにほかならず、逆に、「可能性」だとか「夢」だとかいう言葉ばかり発して未来しか見ようとしないのは、人生に対して無責任な、あるいはただ不安を先送りしているだけの態度といえるかもしれません。

 「未来」へ、「未来」へ、私たちが先のほうばかりに目を向けたくなるのは、これもまた市場経済の特性ととてもマッチしています。市場経済においては、消費の新陳代謝を加速させるために、徹底的に未来だけが問題とされるからです。そこで、市場のなかにどっぷりと浸かっている私たちのほうも、思わぬうちにそのような市場の価値観に引っ張られてしまわざるをえないのです。


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 東日本大震災で児童108名中70名が死亡した石巻市立大川小学校では、子供を亡くした親と、難を逃れた子供の親との救いがたい距離が顕在化しているとの報道を聞きました。当たり前のことと思います。大川小学校に限らず被災地全般、そして被災地に限らず連日の事件や事故が起きている全国各地に共通する現実であると思います。そして、このような解決不能の問題は、いつも国民的議論の盛り上がりとは無縁です。

 「未来」を論理的に突き詰めれば、未来のその先は死です。これは、過去の生に比べて不安定で不確実であり、得体の知れない概念です。しかし、震災後から連呼されていた「未来」は、そのような厳密な検討を経ておらず、単にその場しのぎの未来であったものと思います。多数派に属する者が通常の社会生活を営む際には、昔の出来事はどこかで区切りをつけて「終わったこと」「過去のこと」にしてくれないと、行動しにくいからです。そして、誰もが未来に希望を持って立ち直れば、その目的は表面上は達成されるものと思います。

 子供を失った親における唯一の望み、すなわち「生きてさえいてくれればいい」という願いは、「何をしても帰らない」という絶望と表裏一体であり、名誉・幸福・成功・出世といった観念と対立せざるを得ないものと思います。他方、現に生きている子供の人生は、幸福・成功といった観念からの絶え間ない挑発を受け、死者が不在となった世界で強制的に前に進まされることとなります。紙一重の差で反対方向の人生に向かってしまった両者が、わかり合える道理がないと思います。

 子供を亡くした親の側が採り得る姿勢は、話し相手を不快にさせないために殻を作り、演技をし、理解されないことは語らず、自身が絶望の底に突き落とされるのを防ぐことだと思います。これに対して、子供が難を逃れた親の側の罪悪感は長続きせず、これを不快感に転化させる途が保障されています。生き残った苦しみに比して、亡くした苦しみの質、期間及び規模は異次元であると思います。そして、震災後に叫ばれた「未来」は、それによって「終わったこと」との区別を明確にし、人々の間の距離を広げてきたのだと感じます。

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