犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

若松英輔著 『魂に触れる ――大震災と、生きている死者』 (3)

2013-03-19 22:47:13 | 読書感想文

p.21~

 死を口にするとき、私たちは死を経験したことがあるように錯覚するが、実は他者の死を知るのみであることを忘れがちだ。死を経験したのは、死者のみである。だから、死者がいないなら、死を経験した者は存在しないことになる。私たち生者は、自らの経験として死を語ることができない。だが、死者の経験はどうだろう。

 人は皆、いつか死ななくてはならない、この事実は、終わりなき悲しみの源泉となっているように見える。これを書いている今、東日本大震災から、すでに5カ月が経過している。今日も各界から問題提起や論議が活発に続いているが、被災者の苦しみの奥深くに横たわる、ある視座が見過ごされている。死者をめぐる問題、死者論である。

 死者をめぐる論議など無意味だ、現在苦しんでいる人々に、具体的にどう手を差し伸べるかが問題である、とする意見があることは理解できる。しかし、鎮魂の祈りを捧げる人間の傍らで、その言葉を発することができるだろうか。そうした言葉を口にするのがためらわれるのは、社会儀礼以上の何かによってではないだろうか。

 死者を見出そうと願うなら、「死」に目を奪われてはならない。それは病に近づきすぎて、病者を見失うのに似ている。病気は存在しない。いるのは病に苦しむ人間だけである。労苦があるのではなく、それを背負う人間がいるだけであるように、死ではなく、死者が存在しているのではないだろうか。先に触れたように、何が「死」であるかを、私たちは知らないのである。


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(以下は、(2)の私の文章部分からの続きです。上記引用部分の直接の感想ではありません。)

 私は、「復興」という言葉にすら違和感を覚え続けている。これほどの失われた命を前にして、いずれ死ぬべき1人の人間の直観として、言葉が軽すぎると感じるからである。そのような私が、「命を守れ」「子どもたちの未来」と連呼されれば、当然耳を塞ぎたくなる。人として全く心が痛まないのかと思う。熱く語られれば語られるほど白けてしまう。人災である原発の問題は、天災による死とは論点が違うだけに、死者の存在が無視される度合いは激しい。

 人間の数だけ価値観があり、人と人はいかに議論しても解り合えることがない。そして、政治的な意見の根本的な違いは、世界観や人生観の違いに帰着するしかない。しかし、今回私が感じたのは、「脳」による本能的な思考の違いではなく、より人間の全身を覆っている「肌」の感覚の違いであった。放射能を感じるのは、肌によってである。細胞レベルでの違いである。敏感な人は敏感であり、鈍感な人は鈍感であり、これは如何ともし難い。

 放射能に対する肌の敏感さの違いと、イデオロギーの左右の違いは、全く関連性がない話である。私の隣に座った保守的な先輩は、写真の中の「命を守れ」「子どもを守ろう」という文字を見ながら、理路整然と愛国心を語る。いわく、放射能に汚染されたがれきを日本中にばら撒いて焼却し、大気に放射能を撒き散らすなど、正気の沙汰とは思えない。政府はいったい何を考えているのか。この国を滅ぼそうというのか……。

 議論の虚しさを知らされ続けた私は、ここでも余計なことは言わず、頷くのみである。その分、心の中の整理できない思いは激しい。がれきと呼ばれているその物は、あの3月11日の午後のその瞬間まで、「生まれ育った家」「会社」「学校」「商店街」であり、要するに「生まれ育った街」であり、「全生活」「全財産」であり、すなわち「全て」であった。このことは、その瞬間までの人間を「遺体」と呼び習わすことと並行しているように私には思われた。

(続きます。)

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