犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

若松英輔著 『魂に触れる ――大震災と、生きている死者』 (4)

2013-03-20 00:18:48 | 読書感想文

p.71~

 現代は、死を論じる言語と人間であふれている。死への不安、死への恐怖を語ったところで、死を語ったとする論者があまりに多い。無への道程である死、万物を消滅させる死、どのような形容詞を重ねても、死は、生者にとっては「謎」であり続ける。

 死は、生者には知られ得ない。もし、それを知り得るとするなら、それを経験した死者を通じてのみである。しかし、数多いる死を論じる者のうち、死者を通じて死に触れようとする試みは、どれほどあっただろう。

 震災は甚大な被害をもたらした。そこで死者となった人々もまた、「被災者」である。膨大な震災論のうち、死者を実在として論じたものがいくつあっただろう。死者は亡き者と同義であり、それを語る者は、現実逃避をしているのだとみなす風潮はないだろうか。

 死者を身近に感じ、手を合わせて祈る。祈るばかりでは何も始まらない、という者があるかもしれない。しかし、祈りのないところに、いったい何を始めようとしているのだろうか。祈りとは、生者の願望を表明することではない。沈黙し、存在の声を聞くことである。


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(以下は、(3)の私の文章部分からの続きです。上記引用部分の直接の感想ではありません。)

 人は物事が見えるようにしか見えず、見たいようにしか見えない。世の中で生きる立場が異なれば、その懸隔は絶望的であると思う。親は、我が子の命に責任を持つがゆえに、デモでは心底から「子どもたちの命を守れ」との叫びを上げる。しかしながら、我が子とは、あくまでも子育てをしている自分の子供のことである。人は、「赤の他人の我が子」の命には責任を持たず、ゆえに「子供達の命」という主張は、どこか僭越さを伴わざるを得ないと思う。

 被災地とは、命よりも大事な我が子を喪い、親であったという自分の人生を失い、なおその人生を生きている人が住んでいる場所である。そして、その立場にない私には何も語る資格がない。ただ、その同じ震災から生じた問題について、「子どもたちの命を守りたい」と思うならば、その命を喪った人の目や耳には届かないようにその言葉を語るのが最低限の礼儀だと思う。そして、私が考える礼儀など、活動を全国的に盛り上げたいという熱気の前には全くの無力である。

 人は物事が見えるようにしか見えず、見たいようにしか見えない。「がれきの受け入れは『絆』という美名を利用したゼネコンの利権だ」と熱弁を振るう先輩と、「がれき以外に何かいい呼び方はないのか」と考える私とでは、見えているものが全く違う。先輩にとって、がれきは怖く汚らわしいものである。彼は、目に見えない放射線を見ようとしているが、これは目に見えない。ゆえに、がれきは放射能のそのものであり、ベクレルの数値の高低以外に存在意義はない。

 私は、目に見えない放射線はあくまでも見えず、細胞レベルでも何も感じない人間である。逆に、一昨年の3月11日の午前中までは紛れもない家の柱であり、家具であり、子供が背負っていたランドセルであり、人生の軌跡が詰まったアルバムであったその物を、すべてベクレルの数値のみで切り捨てることに心が痛む人間である。失われた生活や命に思いを寄せる者と、放射能の化身たるがれきによって生活や命が侵されることを恐れる者とでは、やはり見えている世界が違う。

(続きます。)

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