犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

若松英輔著 『魂に触れる ――大震災と、生きている死者』 (2)

2013-03-18 23:09:18 | 読書感想文

p.6~

 愛する者を喪った人間に、懐古の情は生まれない。死者は懐かしむべき過去の対象ではないからである。真に死者を思うとき、経験するのは、時間であるよりも「時」ではないだろうか。時間は流れるが、「時」は過ぎゆかない。死者はいつも、生者を「永遠の今」へと導く。

 死を経験した人はいない。しかし、文学、哲学、あるいは宗教が死を語る。一方、死者を知る者は無数にいるだろう。人は、語らずとも内心で死者と言葉を交わした経験を持つ。だが、死者を語る者は少なく、宗教者ですら事情は大きくは変わらない。死者を感じる人がいても、それを受け止める者がいなければ、人はいつの間にか、自分の経験を疑い始める。


p.31~

 死者に触れることなく、震災の問題の解決を求めることは、問題の大きな一側面を見失うことになる。もっとも深刻な被害を経験しなくてはならなかった一人一人が、数に置き換えられて記録され、記憶からは消されてゆく。死者を記憶するのは個々の遺族の役割であって、公で議論すべき問題ではない、との意見があるかもしれない。しかし、本当にそれでよいのだろうか。そうした社会常識をなぞっただけの態度が、死者を世界から消してきたのではなかったか。

 内心にまざまざと起こる死者の経験を、社会常識という無記名の通念によって打ち消さなくてはならないところに、人々の耐えがたい苦しみがあるのではないか。死者の話をする。それを聞く者は、憐れみをもったまなざしで、話す人を見る。しかし、死者を語る人々が欲しているのは、自らへの憐憫ではない。自己の内側にある個的な死者の体験が、他者によって共有され、現実の出来事となることである。


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(以下は、(1)の私の文章部分からの続きです。上記引用部分の直接の感想ではありません。)

 私の受けた印象では、大震災の被災者に対してより冷たい視線を向けていたのは、思想的に右寄りの人々であった。「残酷な言い方かも知れないが、被災地をある程度切り捨てないと日本はダメになる」「被災者には嫌がられても、国のために無理にでも立ち直らせなければならない」といった本音もあちこちで聞かされた。抽象的な国という実体があり、その足を引っ張る人間が国に対立させられれば、結論は自明であった。

 もともと、犯罪被害者の救済を除けば、弱者救済の思想は左側に親和性があると思う。貧困、病気、障害などに加え、天災についても同様である。根が右寄りである私は、その善意の中にある売名行為の要素に対して気持ち悪さを感じてもいた。普段は経済優先を批判しておきながら、震災直後の自粛ムードに対しては「経済が沈滞する」として批判していた点については、ご都合主義も甚だしいと憤っていた。

 東日本大震災は、福島原発の事故によって、普通の天災ではなくなった。そして、この部分は、私が「犯罪被害者の救済を除けば」弱者救済の思想は左側に親和性があると感じたその部分に一致していた。私の隣に座った先輩は、官邸前の脱原発デモに参加したときの写真を見せてくれた。「命を守れ」「子どもたちの未来」「いのちが大事」「子どもを守ろう」というプラカードがひしめいている。自己主張の強い、原色のプラカードである。

 もし、原発事故が震災に伴うものではなく、2万人近い死者・行方不明者もなく、津波によって多数の子供達の未来が失われていなければ、この脱原発デモは世論から比較にならないほど支持されていただろうと思う。そして、プラカードの文字に心を痛める私としては、この状況においては、このデモは支持されて欲しくはない。これは理屈ではなく、感覚である。その意味では、私は脱原発の賛否について、何ら自分の意見を持っていない。

(続きます。)

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