犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

二木雄策著 『交通死』 後半

2007-04-24 19:59:12 | 読書感想文
損害賠償における逸失利益の算定においては、中間利息の控除の方式として、ホフマン方式(単利)とライプニッツ方式(複利)が考えられている。計算の方式がより合理化され、精密になって行くことは、社会科学の発展としては望ましい。しかしその反面として、被害者遺族は第三者である保険会社からお金の話ばかりを聞かされて、ますます悲しみを深くすることもある。お金の話を被害者保護政策の中心に置くならば、本末転倒の人間疎外を起こす。市場原理や自由競争原理は、犯罪被害者保護にはそぐわない。

資本主義における人間の価値は、その人がいかに世の中で労働力として役立っているかにより決められる。これが機能価値であり、人間の商品価値である。従って、人間の命はお金では買えないが、現代社会のシステム下では他に適当な方法がないため、今のところはこの方法で処理するしかない。その範囲内で合理性を追求すればよい。とりあえずの必要悪であり、次善の策である。この視点を見落として、お金の話ばかりに熱中してしまうと、そもそも命に値段がつけられないことを忘れる。これは、何でもお金で買えると思ってしまっている現代人の陥りやすい罠である。

資本主義というイデオロギーなき全体主義は、犯罪被害者の問題をも容赦なく飲み込む。資本主義のシステム維持の理念からすれば、いつどこで誰が被害に遭おうとも、世の中など何も変わらない。ビクともしない。我々の社会は、このような常識で回っている。殺され損、死に損という言葉があるが、これは損得という経済の原理を人間の生命に持ち込むことによる錯覚である。本来、人間の生死には損も得もないはずであるが、経済の原理はそこまで人間に浸透している。

加害者や保険会社から被害者遺族に対して支払われるお金ばかりに注目してしまうと、被害者遺族の悲しみの意味が捉えられない。被害者遺族は、「愛する人が帰って来るならば、いくらでもお金を払う」という気持ちになる。冷静に考えれば、一体誰が誰に払うお金なのか計算ができないが、どうしてもそのような気持ちになる。しかし、やはり命はお金で買えない。被害者遺族の側は最後まで命をお金で買えないのに、加害者側は命をお金で買った形にすることができる。この構造が、遺族の絶望を決定的なものにする。

刑事裁判においては被害者遺族の意向が反映されないため、遺族が民事裁判で損害賠償請求訴訟をするケースも多い。今後は付帯私訴に移ると思われるが、それでも遺族の求めるものは同じである。すなわち、別にお金が欲しい訳ではない。真実が知りたいだけである。加害者の償いの気持ちを法廷で確かめたいだけである。この世の技術的な制度は、それぞれの人間がそれぞれの意志で使いこなせばよい。

命はお金で買えないにもかかわらず、資本主義社会における法治国家は、命をお金で買うような外形のシステムしか用意できない。そして、被害者遺族は、命をお金で買えないことを加害者に訴えたいがゆえに、そのシステムを利用するしかない。これによって、被害者遺族が「お金が手に入って満足している」という視線を浴びるのであれば、その病理は現代社会の拝金主義にある。これは、犯罪被害者保護法制以前の問題である。

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