犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

文法のルールには逆らえない

2007-04-23 18:57:25 | 言語・論理・構造
ウィトゲンシュタインの前期理論のキーワードが「写像」であるのに対し、中・後期理論のキーワードは「文法」である。法解釈は、当然のことながら、各言語の文法に依存している。アメリカ法なら英語であり、中国法なら中国語であり、日本法なら日本語である。ところが、文法は当たり前のことであるがゆえに、ほとんどの場合には見落とされる。

法律学は、言葉の一言一句を非常に大切にする。例えば、刑法199条の「人を殺した者は死刑に処する」という条文においては、「人」「殺した」「死刑」「処する」といった言葉の解釈について、何十年にもわたって激しい論争が繰り広げられる。その解釈次第によって、被告人の一生が決まることがあるからである。このような論争において、完全に見落とされているものがある。それが、「を」「は」「に」といった合間の言葉である。法律の条文も、文法に従っていなければ意味が通らない。

法律学は、このような文法を、当たり前のこととして無視している。しかしながら、法解釈はこれらの文法に完全に依存していざるを得ない。法とは言葉そのものであり、法解釈とは言葉の解釈だからである。言葉を扱いつつ言葉を見落とすのが法律家の条文解釈の姿勢であり、これが文法を忘れた法解釈の王道である。しかし、どんなに忘れていても、人間は当たり前のことからは逃れることができない。法律家が条文を囲い込んだときには、すでに日常言語によって囲い込まれている。囲うことによって囲まれる。これがハート・橋爪大三郎モデル(勝手に命名させて頂きました)による複言語ゲームの構造である。

どんな凶悪犯人であっても、法律など守らない人間であっても、絶対に守っているルールがある。それが文法のルールである。犯罪者が法律のルールに逆らうためには、大前提として文法のルールに従っていなければならない。犯罪者が「他人の物を盗んではいけない」というルールに逆らって他人の物を盗むためには、「盗む」という言葉の文法的意味を知っていなければならない。これは言語ゲームの階層性である。犯罪者の脳内に浮かんだ単語も、六法全書に印刷してある刑法235条の単語も、言葉という点においては同じである。

泥棒が机の上の財布を盗むことができるのは、「机の上の財布を盗もう」という文章を脳内で思い浮かべることができるからである。「財布の上の机を盗もう」や「机の財布の上を盗もう」では泥棒にならない。「机を上に財布へ盗もう」でも泥棒はできない。どんなに法律を守らない人間であっても、文法は守らざるを得ない。文法のルールに逆らってしまっては、法律のルールに逆らうことができなくなる。複言語ゲームという視点によれば、犯罪とはこのようなものである。

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