犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

犯罪被害に意味を見出すことができるか

2007-04-25 19:03:42 | 言語・論理・構造
現在の高度情報化社会においては、大事件や大事故はセンセーショナルに報じられるが、あっという間に風化する傾向がある。被害者が自己の体験を語り継ぎ、次世代に教訓を残すことは、最大の被害者保護政策であるとも言える。確かに、被害者は事故の記憶を忘れたいという心情もあって複雑である。しかし、被害に何らの意味を見出すことができなければ、それは加害者側からしか物事を見ない従来の姿勢から一歩も踏み出していない。

従来のアカデミズムは、犯罪被害に意味を見出すということには全く興味を持たなかった。刑事法学からは、犯罪学や刑事政策学が細分化したが、いずれも犯罪被害に意味を見出すという方向ではない。前者の主題は犯罪者の改善更生であり、後者の主題は犯罪の予防である。社会科学は仮説と検証という実証的なパラダイムを採用しており、どうしても過去よりも未来に目を向けがちである。被害者が自己の体験を語り継ぎたいという要請は、社会科学のパラダイムにはあてはまりにくい。

法解釈学である刑法学は、被害者にとってはさらに残酷である。大事件や大事故は、単に判例の素材でしかない。アカデミックな刑法学においては、大事件や大事故が皮肉にも風化せずに語り継がれている。それは「興味深い」判例としてである。特に、戦後の数あるデパート火災事件は、過失犯における予見可能性や監督過失の理論に「興味深い」素材を提供するものとして、数々の判例評釈や判例研究がなされた。そこでは、自己の学問的興味を追究している学者が、論敵と論争して盛り上がっている。このような刑事法学の枠組みからすれば、被害者側から物事を見る姿勢が生まれてこなかったことも当然である。

過度のアカデミズムは、人間をデータ化し、サンプル化する。専門化とは世界を広げるのではなく、網の目を細かくすることである。そこでは、物事の全体が見えなくなり、独善的になる傾向がある。これを見せつけられたのが、阪神淡路大震災や、JR福知山線脱線事故の後における専門家の解説であった。被害者の存在を完全に忘れ、自分の専門分野を得意げに解説する様子は、被害者にとっては残酷なものであった。法学者も、自己の学問的興味を追究するあまり、つい「新判例の登場が待たれる」「判例の集積が望まれる」と言ってしまう。しかし、それがいったい何を意味するのかは、真剣に考えられていない。

犯罪被害に意味を見出すのは、容易なことではない。これが政治的に争われてしまうと、被害者の間において価値観がすれ違い、決裂するといった3次的、4次的な被害を生ずる。ここでもやはり、哲学的な視点を抜きには語れない。被害者が立ち直ることは、人間が生きることと同義でしかあり得ない。残された者が犯罪被害に意味を見出すのも、人間が生きることと同義でしかあり得ない。被害者が苦しいのは、それが生きることそのものだからである。人間が生きることは、政治的に説明できるものではない。

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