犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

養老孟司・茂木健一郎著 『スルメを見てイカがわかるか!』

2007-04-10 19:58:53 | 読書感想文
法律家は、自分達は言葉を駆使するプロだと思い込んでいる。しかし、脳科学者から見れば、これは単なる錯覚である。人間は誰しも言葉を使っているのではなく、言葉に使われている。すなわち、人間の脳の働きは言葉によって共有されている。人間の脳は、言語以外には使いようがないことによって、言語に使われている。

物事を論理的に詰めていったときに不可避的に認めざるを得ない力について、養老氏はそれを「強制了解性」と呼ぶ。その力が強いのは数学と哲学であり、法律学はその力が弱い。法律学は言語を一言一句厳格に定義して先に進むが、その定義自体も脳内の言葉によって支配されている。法律学の手法は、言葉を駆使していながら、そもそも人間が言葉を使えるということはいかなることかを考えようとしない。言語学的な問題は棚に上げて、人工的で精密な言語体系を作り上げているだけの話である。法律の条文は、養老氏の言うところの「脳化社会」「意識中心主義」の産物である。法律家が言葉を駆使するプロであるのは、そもそも専門家がそれを駆使できるように言語を無理に変形しているからであり、その外には切り落とされた膨大な言葉が捨てられている。

社会科学の手法は、自然科学の客観性を採り入れて、人間の主観を消そうとした。外部の客観的な性質から世界を理解し、外的言語の世界において外的記述のみを扱おうとするものである。これが法律学における人工言語の体系であり、精密な条文や判決文がこの表れである。そこでは、悪文の典型と言われようとも、日本語とは思えないと言われようとも、重箱の隅をつつくような一言一句の解釈だと言われようとも、とにかく論理的整合性が第一となる。これも「脳化社会」「意識中心主義」の産物であり、専門家と一般人の乖離を招く現代社会の病理である。客観性への信仰は、脳科学者からすれば、脳によって脳を語るパラドックスにすぎない。主観的な脳を消せば客観的な世界も認識できないのだから、人間の主観を消して客観的な世界だけを残すことは無理な話である。

法律学における人工言語は、近代社会において壮大な体系を作った。その頂点が憲法であり、下位には刑法や刑事訴訟法といった法律が位置づけられる。これは論理的に閉じた構造であり、刑法が憲法に反することはできない。これは憲法が原理的に演繹されることであり、刑法から憲法に帰納されることはない。このような閉じた構造は、原理主義に陥る。すべては人間の脳内において意識が作った幻影であるが、体系なるものが実体的に存在するように思えてしまうからである。

また、近代憲法、近代刑法という言い回しに表れるような「近代的」という言葉も錯覚を起こしやすい。単純な進歩史観に陥り、単に自分の主義主張に合わないだけの意見を「歴史の流れに逆行する」と決め付けがちになるからである。すべては脳内において意識が作った幻影である。近代刑法が硬いのではなくて、そのように考えている人間の頭が固いだけの話である。

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