犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

法実証主義と自然法論

2007-04-10 20:27:22 | 言語・論理・構造
論理実証主義から発展した法実証主義は、社会科学の客観性を維持すべく、合理的なスキルを開発した。それが条文解釈の技法である。代表的なものには、拡大解釈、縮小解釈、類推解釈、反対解釈がある。全く同じ条文でも、拡大解釈をするか縮小解釈をするかによって、全く逆の結論が導かれる。類推解釈と反対解釈も同様である。そして、近代刑法の罪刑法定主義においては、類推解釈が禁止されるというルールが確立されている。

問題になるのは、この拡大解釈をするか縮小解釈をするかの基準の選択である。法実証主義は、これに答えることができない。目的論的解釈という苦しい理屈が述べられているが、その実質は「法の趣旨」「法の理念」「法の目的」という概念に頼らざるを得ず、論理実証主義を超えてしまっている。さらには、法律が制定された当時の立法者意思を探りつつ、時代の変化も取り入れて解釈すべきだと言われることもあるが、結局は多数決の価値相対主義に収まっている。ここでは、客観的な言語の解釈というパラダイムは崩れている。

法実証主義を押し進め、純粋法学という体系を確立したのが、法学者のケルゼン(Hans Kelsen、1881‐1973)である。そこでは、形而上学的な自然法を排して、当為(sollen)によって存在(sein)を規定することを放棄した。そして、あらゆる規範体系には一つの「根本規範」があるということを仮定している。これが、あらゆる法体系が持つ「仮設」である。そして、これ以上のことについては、法律学には語り得ぬものであるとして沈黙する。このようなケルゼンの法実証主義は、現代社会において結果として成功したとは言えない。条文解釈の技法ばかりが先行し、その根底には自然法的なものが残っているからである。そこでは、語り得ぬものとして沈黙しなければならないはずのものについて、自然法論を用いて大声で議論がなされている。

法実証主義は、あくまで前期ウィトゲンシュタインの亜流である。そして、この前期思想を批判したのは、他ならぬウィトゲンシュタイン本人の後期思想であった。前期ウィトゲンシュタインは「世界は事物の総体でなく、事実の総体である」と述べたが、後期ウィトゲンシュタインは「語の意味は用法である」と述べている。これが文脈主義である。前期ウィトゲンシュタインの亜流は完全に一人歩きしており、法実証主義と自然法論が不自然に融合されてしまった。

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