犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

橋本治著 『「わからない」という方法』

2010-07-09 00:03:53 | 読書感想文
p.22~
 「どこかに“正解”はあるはずだ」という確信は動かぬまま、理論から理論へと走って、理論を漁ることは流行となり、流行は思想となる。やがては、なにがなんだかわからない“混迷の時代”となって、そこに訪れるのが、「正解である可能性を含んでいる(はずの)情報をキャッチしなければならない」という、情報社会である。
 どこかに「正解」はあるはずなのだから、それを教えてくれる「情報」を捕まえなければならない――そのような思い込みがあって、20世紀末の情報社会は生まれるのだが、それがどれほど役に立つものかはわからない。しかし、「“正解”につながる(はずの)情報を仕入れ続けなければ脱落者になってしまう」という思い込みが、一方にはある。だから、それをし続けなければならない。それをし続けることによって得ることができるのは、「自分もまた“正解はどこかにある”と信じ込んでいる20世紀人の1人である」という一体感だけである。

p.231~
 10代の頃に見た映画をもう一度30代になって見直して、私は、「そういや、昔の映画評論家の言っていた“映画史に残る名作”ってたいしたことなかったな」とも思った。「昔見た映画を、“いい”と思った記憶だけで反芻だけしていると、それが“古くなる”ということに気がつけなくなるのか」と思ったのである。10代の頃の記憶は記憶として、それがその後になってもまだ「感動」として通用するものかどうかはわからない。10代の頃にはよくわからなかったものが、その後になって「わかる」というのは、十分にありえる。
 話は映画に限らない。本だって同じである。しかし、そのことがあまり理解されないのは、人が「若い時の記憶」だけを頼りにしてうっかり生きてしまうからである。もう一度読み直せばいいものを、その「感動の記憶」が健在であれば、人は「読み直して点検しよう」などという気にはならない。そうして、時代からずれて行くのである。


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 私は法学部の大学院で、「法律の世界には正解はない」ということを学んできました。そして、正解のないものについては、「自分の頭で考えろ」と言われてきました。さらには、自分の頭で考えた結論を正直に述べると、教授から「それは間違っている」と言われて、頭から否定されたという覚えがあります。
 私はその時、客観性による裏付けが必要な社会科学においては、「正解はない」という結論も過去の判例や文献の範囲内でのみ許されるのであり、文字通りの「わからない」ことは許されないのだと知りました。

 その議論は、学生のAとBの間で激しく盛り上がっていました。Aは、この事例においては殺人罪が成立するのだと主張して譲りませんでした。過去の文献や判例に照らしてみても、殺人罪が成立しないわけがない。他方、Bも、この事例においては殺人罪は成立しないと主張して一歩も引きませんでした。どの文献や判例を読めば、殺人罪が成立するなどという結論が出てくるのか。
 AとBの意見の違いがどこから生じるのか、教授から意見を求められた私は、思わず言ってしまいました。「殺人罪が成立したりしなかったりするのではない。生き残った人間の側が、殺人罪を成立させたりさせなかったりしているのではないか」。私は、AからもBからも教授からも集中砲火を浴び、それ以来余計なことは言わないことにしました。

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