犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

横浜市弁護士刺殺事件 容疑者逮捕

2010-07-06 00:46:53 | 時間・生死・人生
横浜弁護士会会長談話より

 当会会員の前野義広弁護士が2010(平成22)年6月2日に刺殺された事件について、昨日、被疑者が自ら警察に出頭し、逮捕された。
 当会は、事件当日の会長談話及び同月10日の常議員会決議において、捜査機関に対して厳正かつ迅速な捜査と真相の徹底究明を強く求めていたところであるが、被疑者が逮捕され、この事件が真相解明に向けて事態が進展したことについて、この間捜査に尽力された関係機関に対し感謝の意を表するものである。(中略)

 紛争解決の過程において、自らの主張を暴力という犯罪行為によって実現しようとすることは、社会正義の実現と基本的人権擁護を使命とする我々弁護士の業務に対する重大な挑戦であり、断じて許されるものではない。このような手法が許容されるならば、法というルールによって紛争を解決するというわが国の最も基本的な仕組み自体がその存立の基盤を失ってしまうのである。
 当会は、改めて、亡くなった前野弁護士及びご遺族に対し、哀悼の意を捧げるとともに、今後、捜査や裁判が適正かつ迅速に行われ、早期に真相が究明されることを強く望むものである。また、弁護士の業務を暴力、脅迫等の手段によって妨害する行為に関して、その対策に一層取り組むとともに、そのような行為に対して一歩も引くことなく、毅然と対処する覚悟であることを改めて宣明する。


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 全国の弁護士会の声明や会長談話はホームページでいつでも読めますが、この事件に関する会長談話は、読んでいるだけで疲れます。「遺族は被害感情をむき出しにして厳罰を叫ぶものだ」という決めつけの思考パターンが、まさに裏側から鏡に映るように示されており、「語るに落ちる」とはこのことだろうとも思います。

 「厳正かつ迅速な捜査」「真相の徹底究明」「暴力という犯罪行為・・・断じて許されるものではない」といったくだりは、被害者が弁護士であることを知らなければ、とても弁護士会の主張とは思えないものです。厳正な捜査は冤罪の温床であり、いかなる理由があろうと厳罰は好ましくなく、犯罪者の更生と社会復帰と立ち直りこそが重要であるとの通常のスタンスとは、見事に正反対の議論が展開されています。
 平川隆則容疑者は「殺意はなかった」と供述しているそうですから、弁護団は傷害致死罪の成立を主張しなければならないのであって、弁護士にとっては「刺殺」という表現を用いるのも不適当でしょう。

 これまで、全国の弁護士会は、一貫して犯罪被害者の裁判参加に反対を唱えてきました。それは、感情的な人間の怒りや興奮によって、冷静であるべき手続きの公正さが失われるとの理由からです。そして、今回、弁護士会が被害者の立場に立たされると、顔を真っ赤にして怒っているところが鏡に映ってしまいました。弁護士バッジが屁とも思われなかったという恐怖の前には、犯人への赦しや寛容の精神などあり得ないようです。
 人間の殺意という底知れぬ実存の深淵につき、単に「弁護士業務への妨害」「弁護士業務に対する重大な挑戦」と捉えて拳を振り上げるならば、すべては正義となるに決まっています。そして、「被害者遺族は感情をむき出しにして厳罰を叫ぶものだ」という理論も、このような善悪二元論のフィルターを通してみれば、全くその通りだと言うしかありません。

 前野義広弁護士の父親(81)は、「犯人が逮捕されても息子が帰ってくるわけではありませんので、私たちの悲しみは変わりません。日に日に悲しみが増すばかりです」と述べていました。弁護士会の「毅然たる覚悟」と比べると、残酷なほどの言葉の重さの違いを感じます。「生きてさえいれば」という思いに比べれば、「わが国の最も基本的な仕組み自体の存立の基盤」など吹けば飛ぶようなものでしょう。
 私が前野弁護士の遺族であれば、一生懸命法律の勉強などしなければよかった、司法試験なんか落ちればよかったと悔い、それを事前に見抜くことができなかった自分を生涯責め続けるだろうと思います。そして、人の命が奪われたことではなく弁護士バッジが軽視されたことに激怒し、誰が殺されても一言一句同じ声明を出すような団体からは、哀悼の意など捧げて欲しくないと感じるだろうと思います。

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