犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「3・生きがいを求める心 ―反響への欲求」より

2009-11-02 00:43:52 | 読書感想文
p.63~

生きがいということばには、はりあいという意味がふくまれていた。はりあいを求める心は反響への欲求の一部と考えてもよかろう。子供は最初からひとびとのなかにうまれてきて、その人格はひとびとの相互関係のなかでかたちづくられる。まず他人の存在というものがあって、自我はそれと渾然一体になっているが、次第に他人との交渉という経験を通して少しずつ自我の輪郭がはっきりと意識されて行く。それゆえに、ひとの心のはたらきかけはもともと対話態にできているのである。

他人との共同世界のなかで生きていること。これが人間の根本的なありかたなのだと多くの哲学者や思想家が考えた。その共同世界というものについてテイヤール・ド・シャルダンは独創的な考えかたをしている。彼によれば、この共同世界は思想という「基質」であって、人間たちはその「基質」のなかに浸って生存し、分業と協力を通して互いに影響し合い、支え合い、人類という大きな有機体を作っているのだという。ゆえに自己の生存に対する反響を求めるということは、人間の最も内在的な欲求と考えられるのである。

他人からの反響ということも、他人に自分の存在をうけ入れてもらう性質のものではなくては生きがい感はうまれにくいであろう。そういう意味ではいわゆる「社会的所属への欲求」「承認への欲求」とよばれているものも、このそぼくな「反響への欲求」から出ているものといえる。支配欲や権勢欲の強いひとでは、大ぜいの人が自分の命令ひとつで動くのをみて、そういうかたちで自分の存在への反響をたしかめ、壮快な生きがいを感じるのであろう。


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神谷氏は、自己とは「他者にとっての他者」であるという視点に自覚的であるため、そもそも反響とはどのようなものか、それは人一人の人生にいかなる意義を有するのかについて、深い洞察が可能になっているのだろうと思います。現代社会で聞かれるところの「共存・共生」「他者の気持ちを考える」という言い回しは、近代的自我の独立を起点に他者を周辺に置いているため、入口が逆転しており、最後は敵対的な競争が残ってしまうようにも感じます。

平日はなかなかブログが更新できませんが、連日かなりの訪問を頂きまして、大変感謝しております。仕事で具体な成果を挙げるのが「社会的所属への欲求」であれば、1円にもならないブログを更新するのは「承認への欲求」だと思います。どちらか1つを選べと言われたら、私は後者を選ばざるを得ないでしょう。また、私が他の方々のブログを訪問し、その内容に真剣に向き合って読ませて頂くことが、神谷氏の述べる共同世界における反響の一部を形作っていることに自覚的でありたいと思います。

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