犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「結婚詐欺容疑の女・知人男性連続不審死事件」の報道について思ったこと

2009-10-31 00:40:08 | 実存・心理・宗教
東京都豊島区の34歳の女の周辺で男性の不審死が相次いでいる疑惑が、社会的な関心を集めています。女は詐欺罪で起訴されているだけであり、現段階ではこの殺人罪で逮捕・起訴されているわけではないとのことで、氏名は明らかにされず、顔写真にはぼかしが入っているようです。これに対して、男性達の一部は氏名が明らかにされ、顔写真も出ています。そのため、特定の男性に対しては、その落ち度に対する指摘、特に女に大金を貢いだことへの嘲笑・冷笑も具体的な形でなされているようです。これは、単なる庶民の空騒ぎというものではなく、現代社会を象徴する事件に対する自分自身の距離の取り方や価値観の確立といった要素を含むものであり、それゆえに人々が「自分の問題として」考えている結果だと思います。

匿名と実名の違いについては、第三者による人格の特定、他者の混同を避けるための人物の特定という効果が、一次的な差異であると思われます。しかしながら、今回の報道による女と男性に対する把握の違いを考えてみると、その人格の特定の有無を通じて、見知らぬ人の人生全般を想像する素材が与えられるか否かという効果の違いが大きいような気がします。憲法学においては、表現の自由・知る権利とプライバシー権・名誉権をめぐる伝統的な議論がありますが、過去の判例を素材にした抽象論ばかりが空中で戦っているような印象があります。そして、今回のような具体的な事件が起きた場合については、ワイドショー的で低俗な覗き趣味であるとして見下し、まともに取り上げないような印象があります。

報道被害についての専門的な議論においては、人権論を純粋に貫徹すれば、少年事件に限らず、すべての被疑者・被告人を匿名で報道すべきという結論に至るようです。事件の内容を特定するためには性別と年齢さえ特定すれば十分であるというという事実が、被疑者・被告人とその親族に対する差別や中傷の防止という目的論によって補強されています。そもそも人権論の考え方は、犯罪被害者に対しては何らの興味も湧かない一方で、犯罪者やその親族に対する差別や中傷については、弱い立場に置かれた者に対する最悪の迫害であるという考え方に親和性があります。ここで、対抗する価値として生じてくるのが、表現の自由・報道の自由・取材の自由・知る権利という憲法的な価値です。憲法学の理論は、このような手順を踏んで、ようやく報道被害の問題を論ずることができます。

しかしながら、このような思考パターンでは、具体的な事件に正面から向き合うことは不可能であると思われます。容疑者側が匿名で写真も出ていないのに、なぜ被害者側が実名で写真も出ているのか、この違いについて「公平・不公平」論で考えても仕方がないでしょうし、報道機関も詳細に定められたガイドラインに従っているだけでしょう。私自身、自分に「女の顔写真を見て氏名を知りたい」という覗き趣味的な欲望が存在していることについては卑しいと思いますし、他方で不本意な形で突然一生を終えざるを得なかった男性の人生に敬意を払うためには、匿名にすることは冒涜ではないかとの直観があります。しかし、今回の事件については、女のぼかしが入った顔写真と「女」の字幕、男性のぼかしのない顔写真と氏名の字幕を見るたびに、何かが(どこかが)変だと思わされます。

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