犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島義道著 『観念的生活』より

2009-11-06 23:54:35 | 読書感想文
p.74~

『存在と無』において、サルトルは『自我の超越』における自我論に変更を加え、人間的自我を遥かに単純な構造である「対自」として呈示した。対自とは、内に「無」を取り込んだ、永遠に自らと合致しない存在者であり、そのあり方を彼は「私はあらぬところのものであり、あるところのものではあらぬ」と表現する。

だが、私とは単に「無」を内に取り込んだ存在者なのではなく、「不在」を内に取り込んだ存在者なのではないだろうか。不在とは単なる無ではない。不在には、不在を認める視点が確保されている。他者が死ぬ時、彼は自分自身にとって無となる。だが、私にとっては単なる不在なのだ。私が死ぬ時、私は自分自身にとって無となる。だが、他者にとっては不在である。ここが、他者の死と私自身の死との大きな違いである。私の死とは、私が無を無として捉える視点、すなわち反省の視点を失うことなのだ。


p.78~

不在としての私を理解することは、不在としての他者、すなわち「他の私」を理解することにも繋がる。なぜ、私は自分で体験したこともないのに、老人の肩を揉んでいて、「痛い!」と叫ぶと思わず手を離し、「ああ、気持ちいい」と言うと安心するのか。嬉しそうな表情、悲しそうな表情の裏に表情そのものではない、嬉しい気持ちや悲しい気持ちを読み取ってしまうのか。この時、私は何を理解しているのか。

言葉は初めから体験と非体験との間を越境する機能を有している。彼が「僕は苦しい!」と叫んでも私は一向に苦しくないという非体験を通じて、私は、私ではない眼前のこの者が体験に貫かれて苦しいことを理解する。その叫び声を聞いて、――私の苦しみから類推して想像上の苦しみを彼に感情移入するのではなく――不在の苦しみを彼の「私」に帰属させるのだ。私は彼の苦しみを不在として理解できる。なぜなら、不在には視点が必要であり、他ならぬ私がその視点を受け持つからである。だから、彼にとって、私は、自分の苦しみを不在の苦しみとして理解してくれる他者である。

こうして、ある者Aにとってある者Bが他者である時、BにとってもAは他者である、という交換律が成り立つ。だから、自分の苦しみを不在として受け止めてくれる他者がいない時、Aは不幸である。彼は他者に自分の苦しみ自体を体験してくれることを望んでいるのではない。それは不可能なことを彼は知っている。誰も自分の苦しみに到達できないこと、それにもかかわらずそれを不在として受け止めてほしいこと、そしてそれを尊重してほしいこと、彼はこのことを望んでいるのだ。

人間が互いに絶対的に隔絶されていること、その意味で絶対的に孤独であること、それは人間である限りすべての人の運命であること、それを他者の眼の中に確認したい。「ああ、わかるよ」という言葉の中に確認したい。その時、彼の孤独は僅かに癒される。


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現代社会において、孤独からは一刻も早く解放されねばならないことは、疑い得ない常識のようです。他方で、癒しグッズ、癒しスポット、癒し系音楽などに対する需要も途絶えることがありません。このような社会から半隠遁し、自ら紡ぎだす一言一句にのみ執着している中島氏が「彼の孤独は僅かに癒される」と語るとき、その「僅かさ」の絶望と希望に圧倒されます。

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