犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

新井満著 『自由訳・千の風になって』

2010-11-08 00:06:28 | 読書感想文
p.81~
 大風は、私たちの頭上を吹きすぎていった。月子は私の腕の中で、じっと風を見ていた。月子につられて私も、じっと風を見ていた。風の姿を見た人は、世界中で1人もいないであろう。しかし私はその時、風の姿をたしかに見たような気がした。森の中を、いかにも気持良さそうに吹きわたってゆく1人の風神の姿を…。
 次の瞬間である。頭の片隅で、かすかにひらめくものがあった。<そうか。つまりこの英語詩は、風を主人公にして自由訳すればよいのだな…> このことに気づいたとたん、苦しんでいた翻訳はあっというまにできあがった。原作の英語詩にwind(風)という言葉が登場するのは、1回だけである。意外に思われるかもしれないが、原作の英語詩の中で、“風”のイメージはかなり希薄だったのだ。

本の帯のコピーより
 大切な人を亡くしたら…… 悲しみをいやす奇跡の詩。
死者から、あなたへ。「私のお墓の前で泣かないでください…」 今、あなたの胸に送られてきたのは、千の風になったあの人からのメッセージです。それは喪失の悲しみをいやし、生きる勇気と希望を与えてくれる“再生”の詩。日本中が涙した感動のベストセラーを、ポケットに一冊。


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 上の2つの文を比較してみて、本が売れない時代に本を売るのはつくづく大変なことだと思いました。「癒し」「奇跡」「勇気」「希望」という安易な既成概念の枠を設定することは、『千の風になって』の詩の行間を没却することになります。しかし、本を買ってもらうためには、「癒し」「奇跡」「勇気」「希望」を前面に出すことが避けられなくなります。

 本が売れるということと読まれるということは別の問題であり、読まれなくても売れるのであれば、売上高は上がることとなります。そこでは、何度も同じ本を繰り返し読んで味わうといった人間の行為は、次々と本を売りたい側にとっては迷惑でしかないでしょう。しかしながら、『千の風になって』の詩を深く味わえば味わうほど、「癒し」「奇跡」「勇気」「希望」の押し付けには白けざるを得ないと思います。

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (文月)
2010-12-03 20:51:34
こんばんは。
「私のお墓の前で泣かないでください」
というのは、
自分の死後、残された連れ合いや子ども達に送る私からのメッセージであって、
「千の風になったあの人からのメッセージ」では決してないと思うのは私だけでしょうか。
真の「喪失」の重さを知らない、お涙頂戴のコピーのような白々しさを感じます。
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Unknown (ゆく)
2010-12-10 15:28:07
最近読んだ本中にあった文章です。
「死んで風になることも出来ず・・・」

これこそが、死を正面から捉えているように思えて仕方がありません。

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文月様 (某Y.ike)
2010-12-31 23:06:08
こんばんは。日々の雑事に追われ、お返事が大変遅くなってすみません。

時間的・空間的に「私」を喪失した死者が1人称の「私」を主語にして語るためには、そのための時空間、すなわち死後の世界(あの世・霊界など)がどうしても必要となりますが、風であれ光であれ、生きる者が生きている世界(この世)の現象が「私」であると語ってしまうと、やはり論理矛盾を起こしますね。

一般に、「死後の世界」との表現で言われているところの世界とは、死者が行くと信じられている「あの世」と(人は地獄に落ちたくないためにお布施をします)、死者を抜きにして回っていくであろう「この世」と(人は相続争いを起こさせないために遺言書を書きます)、2つの意味で使われているように思います。そして、この世界を両立して語ることは背理を生じますが、この誤魔化しを直視しないままの癒しや慰めは欺瞞であると思います。

「千の風になったあの人からのメッセージ」という表現の虚偽性を見抜くだけの力があればあるほど、人は正当に苦しまざるを得なくなるのでしょうか。1人称の死の分裂がそのまま2人称の死の把握に移っていることに気がつかないならば、何をどう苦しんでいるのか理解不能でしょうし、苦しんでいる人に対して癒しを与えようとして逆効果を生むのでしょう。

いずれにしても、生きている人は死んだことがないため、本当のところは解らないですね。喪失の重さとは、この解らなさを解らなさとして自ら受け止める姿勢や覚悟のことであり、他者から慰められるのは実に見当違いなことだと感じます。
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ゆく様 (某Y.ike)
2010-12-31 23:07:41
こんばんは。日々の雑事に追われ、お返事が大変遅くなってすみません。

死者はどこへ行ってしまったのかという問いに対し、私がこれまで聞いた中で最も正確に解答に向かっている(問いの視角そのものが答えになっている)と感じたのは、「すべてが息子(娘)だ。私のお腹にいた時と逆だ。」という答えです。もちろん、これはお腹を痛めて生んだ我が子に先立たれた母親の場合に限定されます。

この解答への視角の取り方が、地球上の物理的な現象である風や光に死者の存在を仮託する場合と異なるのは、「すべて」が「無」に反転しうるところだと思います。そして、この反転が生じるのであれば、答えを得た瞬間に不正解となるわけですから、死者はどこへ行ってしまったのか解らないという事実を正面から捉えているように感じられます。死んで風になっていないという否定形で結論を切ることは、世間的な標準で考えれば、相当の精神力がなければできないことでしょう。

言葉はあることをあると語ることによって嘘を語るのであれば、死者が風になっていると断定する点で1つの嘘があり、それが死者自身の口から語られる点でもう1つの嘘があり、この嘘を嘘と知ったうえでなければ、「千の風になって」の歌を正確に聞くことはできないと思います(騙されるということです)。

但し、歌の歌詞は純粋に論理を追求するものではなく、美しい旋律と融合した1つの作品であり、聞く者を感傷に流すためのものですから、やはりこの歌を正確に聞くのは難しいですね。酔った人々の中に1人だけ素面でいるとますます白ける、ということにならざるを得ないと思います。
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