犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池井戸潤著 『空飛ぶタイヤ』より

2010-11-11 23:52:21 | 読書感想文
p.264~

 「お気持ちはわかります。ご立腹はもっともで、心苦しいばかりです。私にも立場というものがございましてこのようなことを申し上げておりますが、本当は、お返ししたいという気持ちで一杯なんです」。沢田は言葉巧みに懐柔にかかる。
 「ただ、部品を返せ返せないということを繰り返していても、何ものをも生みません。事故の責任を明確にしたいという赤松社長のお気持ちはわかりますが、それで亡くなった方が戻ってくるわけではありませんし、事故でダメージを受けているのは私どもも同じなんです。そこで、提案なんですが、そろそろ次のことをお考えになってはどうでしょうか」。

 「次のことだと?」 腕組みした赤松に沢田は眉を寄せ、懇願するような言葉を続ける。
 「新しい部品を持って参りました。先日のトレーラーと同じ形のものが御社で運行されていると、この益田さんからも聞いております。もしよろしければ、そのトレーラーの部品も交換させてください。そう簡単な話ではないと思いますし、この件についてはいろいろと失礼なことを申し上げてしまいました。それについてはこの場で深くお詫び申し上げます。ですが、社長、そろそろ前向きなことを考えていきましょうよ。これ以上事故にこだわっても、いい結果にはならないんじゃないでしょうか」。
 相手を丸め込もうと必死になっている男の説法を黙って聞き流した。沢田が口を閉ざすとふいに沈黙が挟まり、問うような眼差しが赤松を見る。

 「あの事故が全てを変えちまったんだ」。赤松はいった。「いまさら過去をどうすることもできない。だが、人間にはこれを越えなきゃどうしても先にいけないハードルがある。会社だってそれは同じだ。ウチの会社にとって、あの事故の真相究明がまさにそうなんだよ」。
 「誠意を受け取っていただけないでしょうか。社長。この通りです」。沢田はテーブルに額が付くほど頭を垂れた。それを見ていた益田もまた同じように「私からもお願いします」と右へ倣う。情にほだされてしまいそうな、しおらしい態度。もっともらしい話法。だが、赤松が目指すものはそこにはない。

 「なんなら出るところに出ようか」。赤松の啖呵に、黙っていた沢田は一言、「私どもの誠意を評価していただけなくて、残念です」と呟いた。
 赤松は噛みつかんばかりにいう。「じゃあ、法的な措置をとる。それでいいんだな」。
 ぐっと押し黙った沢田から、諦めたような吐息が洩れた。「仕方ないですね。ですが、そんなことをして傷つくのは赤松さん、あなたのほうじゃありませんか。裁判になれば、時間も金もかかる。御社にそんなことをしている余裕があるんですか」。


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 この小説は、走行中のトラックからタイヤが外れ、直撃を受けた歩行者が亡くなった実際の事故をベースにしています。この場面に登場する「沢田」とは、トラックの構造的な欠陥を隠そうとする大手自動車メーカーの社員です。他方、「赤松」とは整備不良との結論を押し付けられようとしている中小の運送会社の社長です。寸分の隙もない台詞の応酬を書き切る小説家の筆力には驚嘆します。

 「亡くなった方が戻ってくるわけではない」という台詞は真実です。真実の言葉は破壊力を持ちます。そして、現実のあらゆる裁判においても、この破壊力が人間の行動に決定的な影響を与えています。問題は、第1にこの破壊力の欺瞞性に敏感になれるか、第2にその敏感さに自身が耐えられるかです。この欺瞞性に鈍感な人ほど、真実を真実として振り回すからです。

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