犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

橋下徹・堺屋太一著 『体制維新――大阪都』より

2012-09-12 00:02:26 | 読書感想文

p.74~ 橋下徹「体制の変更は政治家の使命」より

 僕は知事になったとき、現行の体制を変えることが使命だと考えました。それが政治家にとって、一番大事な役割と考えたのです。政策は専門家でもつくれる、むしろそのほうがいい政策が出てきます。行政を進めるのは役人。しかし、国であろうと地方であろうと、政治行政の仕組みすなわち体制、システムを変えるのは政治家にしかできません。

 体制の変更とは、既得権益を剥がしていくことです。いまの権力構造を変えて、権力の再配置をする。これはもう戦争です。新聞は、もっと話し合いをしろ、議論を尽くせと書きます。もちろん議論すべき問題は議論を尽くすべきだと思います。しかし権力の再配置に関しては、話し合いでは絶対に決着がつきません。

 議会についてもそうです。外から見ている有識者やテレビのコメンテーターの認識とは、大きなギャップがあります。有識者は議会を冷静な議論ができる場だと考えているようですが、大いなる誤解です。議会はいわば、選挙で勝ち残った武将の集まり。敵意や嫉妬はうずまき、人間の最もすさまじい闘争本能が凝縮した場なのです。

 まして権力の再配置の議論となれば、自分たちの既得権益に関わる話です。議会も役所も、敵意むきだしの負の感情がうずまくことになります。合理的判断をするのがむずかしくなり、議員も役人もひたすら現状維持がいいということになる。冷静な議論など、望むべくもありません。

 民主主義の政治にとって、話し合い、議論は大切ですが、最後は選挙によって決着をつけなければニッチもサッチもいかない、そういう局面がやってきます。僕は政策も大事だが、それよりも体制、システムの変革こそ政治の仕事と考えて、これまで知事の仕事をやってきました。


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 「体制」「装置」「システム」「仕組み」「構造」といった単語は、いずれも五感で認識できない抽象名詞です。そして、言葉は存在しないものを存在させてしまうという性質を痛いほど知り抜いているのは、その存在しないはずの幻想によって苦しめられてきた現場の最前線の人間であると思います。そこでは、言葉を動かすのも言葉であるとの洞察があり、この意味での言葉は断じて「議論」ではないとの経験則があるものと思います。

 憲法の統治機構は権力の暴走を抑制するためにあり、これによって個人の人権を守ることが目的であるとの立憲主義の大原則からすれば、橋下氏は「憲法の基礎もわかっていない独裁者」とされるのが当然の帰結です。そして、橋下氏に対するこのような批判は、それを主張する側からは問題点が噛み合っており、橋下氏の側からは問題点が噛み合っていないのだと思います。これは、「憲法」「統治機構」「権力」も抽象名詞であり、五感で認識できない幻想であることによります。

 情報化社会における政治家の好き嫌いの選別は、今や芸能人に対するそれに類似しているように感じます。ここに本来的なイデオロギーによる正義と不正義の概念が結び付けられれば、ある政治家を支持するかしないかは、生理的な細胞レベルにまで至るのではないかと思います。私は、政治の難しい話はよくわかりませんが、個人的に橋下氏は「好き」のほうに入っています。これは、橋下氏が光市母子殺害事件の弁護団に対する懲戒請求を呼びかけていたことに端を発しています。

 人は自分の狭い経験からものを考えるしかありませんが、私の忘れ難い経験として、同窓会で久しぶりに会った同級生の変貌ぶりがあります。議員になった同級生は、目つきや語り口が昔とは別人のようになっており、どこから見ても政治家でした。官庁に勤めた同級生は、人格が完全に変わっており、完璧な役人となっていました。このような強烈な記憶から、私は個人的に憲法学者が述べる「権力の抑制」よりも、橋下氏が述べる「権力の再配置」のほうに迫真性を感じています。

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