犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東日本大震災から1年半

2012-09-11 23:52:39 | 時間・生死・人生

平成23年5月17日 東京新聞夕刊
中島義道「震災への『なぜ』今こそ ―― 美談が覆う真実もある」より

 被災地の少女がローマ法王ベネディクト16世に「なぜ子どもたちはこんなに苦しまなくてはならないのですか」と問い掛けたのに対し、「私も自問していますが、答えは出ないかもしれない」と答えた。こうした生の意味を問う「なぜ」が、あまりにも少ないことが気になる。震災に対して「なぜ?」という問いや絶望の言葉があっていいのではないでしょうか。死者が何万人に上ろうと、わが子を失った人にとってはその子1人の死が重要です。その人にとっては将来の「日本」などどうでもいいのです。

 今は「頑張ろう」のメッセージばかりが目立ちます。この言葉自体に反対はしませんが、テレビCMで有名人が「頑張ろう」と言い続け、マスメディアで何度も繰り返されるほど、言葉の意味が退化し、空疎になっていく。津波にのまれ、目前で自分の肉親を失った人は、頑張りたくなく、頑張ろうにも頑張れず、場合によったら自分も死にたいかもしれない。

 泥だらけのランドセルが回収されたという出来事が美談として報道されましたが、学校が大嫌いな子も級友からいじめに遭っている子もいるはず。それなのに、すべての子は学校や勉強や友だちが大好きだという「神話」が真実を覆ってしまいます。目下メディアをにぎわしているのは“心温まる家族間の話”であり、そこに登場してくるのは、原発の作業員と妻、妻を失った被災者の夫、祖母と声を掛け合って助かった孫など法的に認められた家族だけです。不倫相手を失った愛人とか、同性愛の恋人を亡くした人などは全く抹殺され、天涯孤独な人も、家族を激しく憎んでいる人も切り捨てられた「健全な」家族の美談だけです。

 今こそ「なぜ人間はこんなに不幸なのか」「人生は生きている価値があるのか」という問いがもっとあっていいと思います。パスカルのいう「繊細な精神」であり、物事を一般的、客観的、論理的に割り切ろうとする「幾何学的精神」と対立するものであって、限りない矛盾に満ちた個々のものをそのままとらえようとする精神です。なぜ、あの人が津波に流されて私は生き残っているのか、くたくたになるまで考えることです。もちろん答えはないでしょう。でも、それをごまかすことなく問い続けることこそ、人間として最も必要なこと、何よりも価値あることなのです。


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 震災後、中島氏のような言葉がもっと報道されるかと思いましたが、実際にはほとんど聞かれなかったと思います。現実に問題となっていた問いを言語化すれば、それは「なぜ人間はこんなに不幸なのか」「人生は生きている価値があるのか」であらざるを得ません。ところが、最初の半年程度は躁状態であり、その後に鬱状態が来る間もなく、風化の力が上回ってきました。この点は、原発事故が起ころうと起こるまいと同じであったと思います。皮肉にも、今は中島氏が指摘したいじめの問題が注目を浴びています。

 答えがない問題について問い続けることは、経済や復興という点からは完全にマイナスであり、為政者にとっては国力を削ぐ害悪なのだと思います。「なぜあの人が津波に流されて私は生き残っているのか」という問いを考え続けることの価値の高さは、恐らく多くの人によって理解されていたはずです。すなわち、いかなる経済活動よりも、人間として必要な行為だということです。それだけに、「頑張ろう日本」や「絆」を前面に押し出し、この問いを潰すような、見えない力が生じたのだという気がします。

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