犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

夏目漱石著 『門』より

2011-10-05 00:02:30 | 読書感想文
p.280~

 自分は門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向側にいて、敲いても遂に顔さえ出してくれなかった。ただ、「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞えただけであった。
 彼はどうしたらこの門の閂を開ける事が出来るかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中で拵えた。けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成する事が出来なかった。従って自分の立っている場所は、この問題を考えない昔と毫も異なるところがなかった。彼は依然として無能無力に鎖ざされた扉の前に取り残された。

 彼は平生自分の分別を便に生きて来た。その分別が今は彼に祟ったのを口惜しく思った。そうして始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは信念に篤い善男善女の、知慧も忘れ思議も浮ばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。
 彼自身は長く門外に佇立むべき運命をもって生れて来たものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざ其所まで辿り付くのが矛盾であった。
 彼は後を顧みた。そうして到底又元の路へ引き返す勇気を有たなかった。彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時までも展望を遮ぎっていた。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。


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 上記の部分を初めて読んだのは、高校の現代文の授業のときでした。私は、漱石の指すところの「門」は比喩であり、ここには種々のものを読み込むことが可能なのだと思いました。
 他方で、私は、この「門とは何か」との問いに対する解答を求めようとする思考の視野の狭さを軽蔑していました。また、この門に自己を投影して教訓を得ようとする心情の底の浅さを軽蔑していました。

 私は、大学院で刑事政策を学び、「人はなぜ罪を犯すのか」「どうすれば犯罪のない社会が作れるのか」との問いは机上の空論に陥って迷走することを知りました。そして、現実に刑事裁判が行われている裁判所の中に入ってみなければ、象牙の塔の内部の争いの下らなさは解らないと思いました。
 その後、私は裁判所の刑事部の書記官として日々の職務にあたり、職責の重さと職務過誤への対応にかこつけて、「人はなぜ罪を犯すのか」との問いを失いました。さらには、刑事部の書記官の増員といった政治的な場面では、組織人のあるべき態度として、私は犯罪と犯罪者の増加を望まなければならないことを知りました。

 このような経験を経て、私は漱石の述べる「門」の比喩の恐ろしさが、少しずつ実体的に感じられるようになってきました。この社会を生き抜くのに何かの役に立つわけではありません。

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