犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

佐伯啓思著 『反・幸福論』 その1

2012-01-29 23:56:36 | 読書感想文

第5章 「人間蛆虫の幸福論」より

p.111~

 「幸福」という言葉ほどわかったようなわからないような言葉はめったにありません。おそらくそれが何を意味しているのかはわからないのに、誰もが「幸福になりたい」と思っているのでしょう。いや、その程度の素朴な感情ならよいのですが、どうも現代人はそれより一歩踏み込んで、もっと積極的に「幸福であるべきだ」と考えているようです。「人は幸福でなければならない」という道徳意識さえもっているのではないでしょうか。

 「幸福になりたい」という素朴な感情と、「幸福であるべきだ」という規範は水と油ほど違います。本来、幸福といっても不幸といってもしょせん主観的なものです。健康で衣食住が足りて生活が安定していればよい。だいたいはそんなものでしょう。ところが、一応の衣食住が足りると、どうも隣の人はもっといい生活をしているのではないかなどと思ってしまう。あいつはもっと成功していると、ついうらやましくなる。


p.117~

 「ポジティブ・シンキング」とは、いうまでもなく「物事を楽観的に考える」ことで、悲観的に捉える「ネガティブ・シンキング」を排する、ということです。そして「ポジティブ・シンキングをすれば幸福になる」とされる。この命題と「人は幸福にならなければならない」という命題が結びつくと、「人はポジティブ・シンキングしなければならない」というかなり強力な命題がでてくる。

 そうなると、ポジティブ・シンキングする人は正しい人で、ネガティブなことを言う人は、それだけで間違った人だということになってしまう。かくて「ポジティブ」であることが強迫観念になってきます。物事の悲観的観測など、それ自体が間違っている、となる。虚構でもいんちきでも、ともかくも「ポジティブ」であることだけがまかり通ってしまうのです。


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 佐伯氏が述べるとおり、幸福も不幸も主観的なものであり、赤の他人が判定してとやかく言う筋合いのものではないと思います。「あなたは不幸な人である」と勝手にレッテルを貼られ、「幸せになってほしい」と祈られることは、他者から一方的に優越感と憐れみの視線を向けられることであり、非常に失礼な扱いであるとの感がします。そのような行為が余計なお世話であり、「幸福など祈ってほしくない」という反応を示しているにもかかわらず、なお行為者がその空気に気付かないのであれば、これはポジティブであることの強迫観念の為せる業だと思います。

 相手方が拒否反応を示していても、なおそれを改めさせようとするとき、その人は正義の立場にあり、道徳的です。すなわちその人個人の意見や善意ではなく、その人を超えた絶対的な正義です。これは、「相手方のためである」と心底信じている点で、非常に扱いにくい善意であると感じます。人間は、自らが不正義や不道徳であると感じるものに対しては、自身の足場を危うくしないために、それを放置してはおけないとの衝動に駆られます。ここで必要になる思考とは、この世には人間の数だけ「自分」がおり、この自分は人間の数だけある「自分」中の1人に過ぎないという哲学的洞察ではないかと思います。

 佐伯氏が述べるとおり、「幸福になりたい」という素朴な感情と、「幸福であるべきだ」という規範は水と油ほど違うはずだと思います。そして、「自分の人生が幸福かどうか」という問題と、自分の人生は脇に置いた上での「幸福とは何か」という問題とがあり、この論理の区別ができるかどうかが、思考の深さにつながっているのだろうと感じます。「人はポジティブ・シンキングしなければならない」という命題を振りかざす者に対しては、思慮深い人は自分の心の奥底を断じて語らないだろうと思います。

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