第7章 「畏れとおののきと祈りと」より (東日本大震災に関して)
p.169~
報道をみていると、やたら「がんばれニッポン、がんばれトウホク」がめだち、「国民一体となって復興を」というにわかづくりのナショナリズムが噴出しており、そこに何か大事なものが欠落しているような気がしてなりません。
おそらく現地に重く広がっているであろう絶望感、虚無感、虚脱感、やり場のない怒りや苦痛などは、テレビ映像からは伝わってきません。これはしょうがないといえばしょうがなく、今日のテレビ報道は本当に深刻な場面は映し出しませんし、また、確かにそういう絶望も虚脱も公的な報道の枠に収まるものではないでしょう。
原点に戻るならこの大災害できわめてはっきりしていることが2つある。ひとつは、これはいかなる意味でも人間の力を超えた圧倒的な自然の力をみせつけたものだ、ということ。もうひとつは、これだけの大災害では、被災者と非被災者、さらには、肉親を失ったものとそうではないもの、もっといえば生者と死者の間にはどうしようもない断絶ができてしまう、ということです。
この2つのことは、いかなる意味でも良い悪いの問題ではなく、そのものとして受け入れなければならない。と同時にそれは容易には受け入れがたいことでもあるのです。端的にいえば、これはどうしようもなく理不尽な事態なのです。
p.174~
確かに、「生き残ったもの」と「死んだもの」の間にある偶然の境界は厳然として残る。「被災者」と「非被災者」との間でも同じことがいえます。これもまったくの偶然なのです。にもかかわらず、それも「生者」と「死者」の場合と同様に、偶然といって片づけるには、あまりに境遇が違いすぎるのです。これも理不尽というほかない。
われわれはこちら側でテレビを見ながら同情したり、共感したりしている。それはテレビメディアの限界です。しかし、大事なことはこちら側から相手に同情することではなく、いわば論理的な想像力を働かせて、このような大災害はわれわれの共通の経験とみるということです。ここでは、本当は被災者も非被災者もないのです。両者は重なり合っているはずなのです。
ではわれわれの共通の経験として見た場合、この未曾有の出来事、しかもどこまでも理不尽で納得不可能な出来事に直面したとき、人は何を感じるのでしょうか。私には、それは広い意味で「信仰」という問題だと思われます。広い意味での「宗教的なるもの」です。「生」と「死」が重なりあってしまったなかで「生」の意味が失われてしまうという時、人は「宗教的なるもの」に触れる瞬間をもつのではないでしょうか。
今回の地震についての報道をもっぱらテレビで見ていて、私がどうしても何か欠落しているといったのはこの「宗教的なもの」といってよい。それは、深いところにある絶望から立ち上ってくるような祈り、虚無感と一体となった哀感、何かに対する畏れ、といったものなのです。何かそういう心情がなかなか見えない。
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佐伯啓思氏といえば、基本的人権や自由主義、民主主義を批判する保守派の論客であるとの先入観がありましたが、近年では「保守と革新」「右翼と左翼」という対立軸は時代遅れになった感があると述べているようです。この右翼と左翼でもない天災に関する佐伯氏の論考を前にして、私は非常に腑に落ちる感覚を味わいました。同時に、右翼と左翼でもない天災であるにも関わらず、政治的にリベラルな立場の論考はなぜか腑に落ちないという実感があります。これは、人の生死に関する論考が薄く、死生観が不明であるという印象から来ています。
佐伯氏が述べる「広い意味での宗教的なるもの」との概念は、壊滅した被災地を前にして、神も仏もない、来世や天国もない、教会も寺社も役に立たないという点から始まるものと思います。具体的な教義や教祖、宗教団体を完全に否定する動きの中で、逆説的に浮かび上がってくる「畏れ・おののき・祈り」です。非被災者の1人である私が「がんばろう日本」「被災地に元気を与える」の連呼から感じていた違和感は、このような点でした。被災地に対して「頑張れ」と言ってはならないとの声を耳にしつつ、それでも同じことを繰り返すのは、確信犯に近いと思います。
私が以前から犯罪被害者支援に関して、リベラルな立場からの支援策(修復的司法)がどうも心に響かないと感じていたのも、このような部分によるものでした。「被害者を支援すれば厳罰感情が和らいで国家刑罰権が抑制される」という部分を差し引いても、何となく胡散臭さが拭えなかったのは、右翼でも左翼でもない天災に向き合う姿勢の違いと同じ理由であったように思います。