犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

養老孟司著 『無思想の発見』 その2

2007-12-10 21:07:17 | 読書感想文
第1章「私的な私、公的な私」より

「人権週間というものがあって、そこでときどき話をさせられることがある。たいていは自治体主催の集まりである。そんな週間があること自体、人権がいかにタテマエかを示している。この場合のタテマエとは、『言葉とその意味内容と思われるものだけがあるべきものとして存在していて、実体が不在である』ことを意味している。タテマエの裏はホンネだが、そのホンネがもともとない。だって、人権は輸入品なんだから。そもそも人権が世間の常識だったら、人権週間なんてものはない。憲法は個人を公の私的単位と規定したのだが、世間は慣習である」(p.23より抜粋)。


12月4日から12月10日は「人権週間」、その最終日が「人権デー」である。世界人権宣言が採択されたのが昭和23年の12月10日であり、法務省と全国人権擁護委員連合会が毎年この時期に人権思想の普及高揚のための啓発活動を全国的に展開しているらしい。しかしながら、養老氏の述べるとおり、これは完全なタテマエである。国民のほとんども真面目に考えていない。この時期になると思い出したように人権作文コンテストが行われ、標語が募集され、「守ろう人権」「広げよう人権」といった横断幕や垂れ幕が並ぶが、それでここ数十年、一体何がどう変わっているのか。人権週間の存在を真剣に疑ってかかろうとせず、お役所は前例踏襲に従い、ほとんどの国民が気にも留めていない点において、まさに人権がタテマエであることが示されている。

今年は、小学生から大学生に至るまでのネットいじめが問題となり、「KY(空気読めない)」が流行語となった。ここでネットいじめ問題を人権の枠組で捉えても、トンチンカンになることは目に見えている。人権論からすれば、他人の人権を尊重することは必要であっても、場の空気を読む力などは全く必要ないはずである。それどころか、空気読み力の向上は、人権感覚の向上とは真っ向から衝突する面がある。戦後60年を過ぎた日本でここまで「KY」という言葉が流行するということは、日本人は人権概念にほとんど関心がなく、人権大国など望んでいないことを示している。これも養老氏の分析のとおりである。このような日本社会を生き抜くには、人権感覚を身に付けるよりも、空気読み力を身に付けるほうが有利である。ネットいじめの標的になることを避けるためには、机上の空論ではなく、生活に密着した生きた思想を学ばなければならない。

人権週間において掲げられる項目は、現代社会ではいかにも古い。弱者として掲げられている人々のカテゴリーは確かに弱者であるが、それに対する強者が今や不明確になっている。子どもの人権、高齢者の人権、障害者の人権、女性の人権、外国人の人権、性同一性障害者の人権、刑を終え出所した人の人権などと列挙されたところで、それに対応する強者のパラダイムが古すぎて、多くの国民にはピンと来ない。これでは何をどうすればいいのか、作文を書いて標語を作って表彰して終わりというだけの話になってしまう。それでも旧態依然のイベントを続けるというならば、もう少し「人KENまもる君」と「人KENあゆみちゃん」に頑張ってもらうしかない。

参考文献:人KENまもる君・人KENあゆみちゃん
http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken84.html

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