犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

修復的司法の残酷

2007-12-11 16:21:05 | 時間・生死・人生
存在の形式は、時間の不可逆性を免れることができない。存在は不在の中に現れ、不在は存在の中に現れる。このような存在の形式に規定されている限り、「修復」という概念は、厳密に述べればどこまでも虚構である。時間が不可逆性を有する限り、人間が何かを元通りに戻すことはできない。修復とは、人間が元に戻らないものについて、とりあえず元に戻ったとみなして満足する作業である。

最愛の人を喪失する体験は、残された者にとっては、「存在の非在化」の経験として現れる。これは、決定的な不在の強制である。生き残った者は、とにかく生きてゆかねばならない。そこでは、それまで死者が占めていた場所を、生きている者が埋めてゆくこととなる。残された者は、特に立ち直りたいと思うものではない。むしろ、死者のことを思うならば、簡単に立ち直りたくなどないと思うのが通常である。ところが、日常という名の決定的な圧力は、残された者に立ち直りを強制する。そこでは、死者の不在そのものが存在の中に紛れ込む。

最愛の人の死による存在の非在化も、やがては存在によって埋め尽くされる。この繰り返しを直視することは、人間にとっては底なしの恐怖である。恐ろしいものは、不在ではなく存在である。存在が不在を飲み込み、生が死を飲み込む。この世はなぜかこのような形において存在し、このような形以外では存在しない。人間はこのように存在するこの世の中で、どういうわけかこのように存在する。人間は、「存在する」時には現在進行形で「存在している」しかなく、「存在してしまっている」しかない。

この存在という形式においては時間が戻ることはなく、「修復」という概念はどこまでも虚構である。ここに修復的司法というフィクションを持ち込むことは、最愛の人を喪失した者にとっては決定的な暴力として作用する。それは、死者が占めていた場所を、遺族ではなく、加害者が埋めてゆくということである。死者の非在化に抵抗するものは、残された者における死者の生前の記憶である。ここで遺族に加害者を赦すことを要求し、加害者の更生をもって修復に代えようとすることは、存在の形式を決定的に変質させることである。

存在の非在化は、再び存在によって埋め尽くされるしかない。この繰り返しは、人間にとって底抜けの恐怖である。加害者は赦されて更生したとしても、何十年かすれば寿命で死ぬしかなく、再び存在の非在化の流れに飲み込まれる。修復的司法の残酷さとは、時間の不可逆性による不在の強制に鈍感であることである。それは、死を語りつつ、死を見ないようにして逃げていることでもある。遺族にとっては、事件の日から時間は止まっている。それを再び動かすのは死者自身でしかない。遺族の赦しでもなければ、ましてや加害者の更生などではない。

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