犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

山本貴光・吉川浩満著 『問題がモンダイなのだ』

2007-12-10 14:46:20 | 読書感想文
哲学の思考は、問題を問題とすることである。そもそも「問題」とは何か。なぜその問題が問題となるのか。「なぜ」という問いに対しては、「メタなぜ」の問いを立てることができる。問いは向こうからやってくるものであり、出来合いの問いを自分の頭で新たに問い直すことによって始まる。これは、ソクラテスの無知の知に始まる哲学的思考の伝統である。

「死刑は廃止すべきか」という問いがある。この問いの形は、あまり上手いとはいえない。賛成派と反対派が延々と議論をしているが、最初から答えを出す気がないようである。犯罪の抑止力があるのか、残酷な刑罰にあたるのか、誤判の恐れはどうするのか、終身刑のほうが残酷ではないのか、国家が生命の重さを示すのに生命を奪うのは論理矛盾ではないのかといった決まりきった論拠が挙げられ、最後は疲れて飽きて終わるのがオチである。

「死刑は廃止すべきか」という問いについて、賛成・反対に分かれて議論をするためには、最低限2人の人間が必要である。ここで奇妙なことは、死刑論議は世界でたった1つの生命の重さを問題としているのに、人間が2人必要だということである。ある人が死刑賛成派か反対派のいずれかの立場に立って、反対説を批判しているならば、それはすでに世界でたった1つの生命の重さを捉え損なっている。問題が政治的な形で持ち込まれた結果として、哲学的な問題意識が消えてしまっている。

山本氏と吉川氏によれば、ある問題に対して答えを出す方法は、「問題に解答を与える」方法と、「問題を解消する」方法の2つしかない。哲学の思考は、「問題を解消する」方法である。これは弁証法のパラドックスである。有名な嘘つきクレタ人のパラドックスや、アキレスと亀のパラドックスなどは、答えが出ないことが答えである。死刑廃止論も似たようなものである。生きている人間が生死というものを問題にする以上、自己言及のパラドックスが生じ、答えが出ないことが答えとなる。

社会を維持していくためには、とりあえず「問題に解答を与える」方法によって先に進むしかない。そこで現在の日本は、民主主義の多数決によって、法律的には死刑を存置することにしている。それだけのことである。死刑存置国では「死刑は廃止すべきか」という問題が起こり、死刑廃止国では「死刑は復活すべきか」という問題が起こる。今後日本がどうなるのか、世界がどうなるのか全くわからないが、人類は延々とこれを繰り返すだけの話であろう。

気が遠くなるほどの長いスパンで、死刑を廃止すれば復活論が起こり、死刑を復活させれば廃止論が起きる。おそらく人類は、30世紀にも100世紀にも同じことをしているだろう。「死刑廃止は21世紀の世界的潮流である」と言ったところで、永久の時間軸の前には相対化されるしかない。このように考えて気が遠くなれば、いつの間にか「死刑は廃止すべきか」という問いは解消されている。これも「問題を解消する」1つの方法である。身も蓋もないが、実際にその通りなのだから仕方がない。

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