犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

佐伯啓思著 『反・幸福論』 その3

2012-02-01 23:43:56 | 読書感想文

p.85~

 「『無縁社会』で何が悪い」という少し挑発的ないい方で、私はふたつのことを書きました。ひとつは皮肉をこめてですが、戦後日本は、個人の自由や様々な束縛からの解放を進歩であり、文明化だと考えてきました。そうであれば、個人の自由をさまたげる束縛、つまり「縁」から自らを切り離すことを必死にやってきたわけで、その延長線上に「無縁」状態が出現するのは当然のことなのです。

 もしも「無縁社会」が問題というなら、西洋を手本として日本人が理想とした「近代化=個人の自由の拡大」という価値観そのものを問い直さなければならない、ということです。戦後日本人が幸福のもっとも基本的な条件とみなした「個人の自由」と「縁」は対立するものだったのです。

 もうひとつはもっと根源的なことで、端的にいえば、人間は最終的にはひとつの生物体、生命体として死ぬほかない、ということです。この世に生まれ、そして死ぬという人生の最初と最後だけは、どうつくろっても生物的な個体的な現象なのです。特に「死」の方はそうでしょう。死とは本質的に「無縁化」なのです。

 「近代化=個人の自由の拡大」という方程式をどこまでも推し進めれば、どうしてもむき出しの生物学的な死という現象に向き合わなければならなくなってしまう。むしろ不思議なのは、一方で、個人的な自由や幸福を徹底的に求めながら、他方では、ここへきてやたら「絆」や「つながり」が言われるようになった、ということでしょう。


p.108~

 人間というものはいずれ個体としてひとりで死ぬものです。こういうふうな見方からすれば、われわれの「生」の方がむしろ偶然的で一時的な、それこそ「うたかたの夢」であり「川にうかぶあぶく」のようなものです。そこで、この「無」のほうを基準点にとれば、人生とはなんとまあ無駄で無意味なことばかりしているものか、ということにもなる。

 つまらないことで争い、ささいなことで騒動を起こし、人を傷つける、といったことの繰り返しです。現世で成功して栄誉を手に入れるとすぐに得意になってしまい、また自分の知人が自分より成功すると嫉妬する。

 「死」という「無」を基準にとれば、現世の「有」は、何か余計なものの集積であり、つまらない人間の感情により覆われている。この世で人を動かしているものは嫉妬であり、恨みであり、利己心であり、見栄であり、名誉欲である、ということになる。これらはすべて人間社会の必然、つまり「縁」なのです。

 自由に生きたい、もっと幸せになりたい、などという世俗の欲望に突き動かされて「縁」を疎んじてきたわれわれを待っているものは、確かに「無縁死」なのです。しかし、現在の「無縁者」は、かつての「漂泊者」や「遁世者」とはまったく違います。それは、われわれにはもはや「死生観」がないからです。


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 憲法学、民法学、刑法学のどれを取っても、「近代化=個人の自由の拡大」が疑われない大前提とされています。どの分野においても学説の論争は激しいですが、いずれも大前提そのものが疑われることはありません。このような理論を専門的に学んできた私にとって、現代社会における問題提起のされ方は、「こんなはずではなかった」という居心地の悪さを引き起こすものでした。

 憲法学では生死の自己決定権、民法学では相続や遺言、刑法学では殺人罪や死刑といった論考を通じて、私は死について真剣に考えてきたつもりでした。しかし、社会科学の客観性が支配する場では、自分自身を除いた客観的な世界の捉え方の論争以外は許されず、私はその範囲内での思考に終始していました。私は、「次の世代」「未来の日本」を語るとき、自分は死なないことを前提としており、その結末を見届けられることを漠然と信じていたように思います。

 法学者・法律研究家のほとんどは、法は人間の理性の集積であることを純粋に信じているものと思います。法律とは世の中になくてはならないものであり、法律が世の中を動かしているということです。これに対し、現実の社会のドロドロした部分に常時接している法律実務家は、法律や法律家の必要性について、ある程度冷めた見方ができているように思います。人間社会の無駄で無意味なこと、すなわち嫉妬や利己心や名誉欲こそが需要と供給を生み出しており、法律はその後をくっ付いているということです。

 佐伯氏が法学者を「サヨク進歩主義者」と揶揄しているのは、実際にそのとおりであり、法学は性質上「サヨク進歩主義」の学問であらざるを得ないと思います。憲法とは国家権力に縛りをかけるための制度であり、民主主義的基盤を持たない裁判所に違憲立法審査権を与え、民法も刑法も憲法の下にあるからです。結局のところ、憲法学が「死者には人権がない」以上のことが言えないのは、史的唯物論が「死」という「無」を上手く説明できなかったことの流れではないかと思います。

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