サンロードから一本裏路地に入ったところにあるバーで、僕たちはチンザノを飲んでいた。就職して一年目、1990年のことだ。クリスマス直前だったと思う。
その頃付き合っていた彼女は、いつもふんわりとした雰囲気を持った優しい女性だった。待ち合わせのときに僕の姿を見つけると、何か嬉しいことを発見したように、首を右にかしげて微笑んだものだ。
来たるべきイヴの話しをして微笑みあい、あまり遅くならないうちにと店を出た。平日の夜だった。ダイア街を歩き、パルコの横を抜けて駅に向かっていると、向こうから一人の男がやってきて立ち止まった。
「今晩は」
歳は僕と同じか、少し下。寒そうなウィンドブレーカーにジーンズ、汚れたジョグシューズという格好。「お似合いのカップルですね。先輩はカッコイイし、彼女はとてもきれいだし」
彼は初対面の僕を先輩と呼んだ。それから一寸辺りの店の話しをした。僕は用心しながら、適当に相槌を打った。どうやら悪い男ではないようだ。お互いよく知っている店が何軒かあったし、何よりも目には静謐の色が表れていたからだ。
「そうだ、ここの上に居酒屋があるんですよ。奥の座敷には坂本龍馬の大きな写真が貼ってあるんです。良かったらそこで一緒に飲みませんか? 僕は彼を敬愛してるんです」彼は言った。ずいぶんと遠慮がちで、相手を不愉快な気分にさせないようにと苦慮している言い方だった。
もう酒は飲んできたのだけど、彼の提案には惹かれるものがあった。彼には独特の表情があった。穏やかで、人なつこくて、それでいて何かを諦めてしまったような、一風変わったものだ。歳不相応の落ち着いた目に惹かれたのかもしれない。だが一歩後ろに下がっていた彼女が僕の腕にしがみつき、囁いた。「早く行こう。ね」
女性としては当然だろう。だから僕は言ったのだ。「いい提案だと思うけど、もう帰らないといけないんだ。また今度、飲もうよ」
「そうですか」彼は目元に細かな皺を集めてほろ苦く微笑した。「実は次回はないんです。僕は来週、刑務所に入るんです」
ええ、何だって? 僕は彼をあらためて見た。彼はぺこりとお辞儀をして言った。「お二人がいつまでも幸せであるように。さようなら」
僕は去ってゆく彼の後ろ姿を眺めた。寒風に消え入りそうに見えた。そこで彼女はまた力を入れて、僕の腕を握りしめた。「あなたは誰でも信用してしまうんだから。だめよ、注意して。お願い」
これだけのことなのだ。しかし何年経っても、このときの情景は忘れられない。吉祥寺にはこんな小さくて、一寸いい想い出がたくさん詰まっている。僕にとっての吉祥寺とは、こんな街なのだ。