それぞれの人が、いろんなことを言っております。
そして、そんなことくらい分っている、と思っている人でも、まだまだ多様性が分らないようで。
フランス人はこう考える。
私は、日本人ほど汚染されていないし、イギリス人ほど仕事にあぶれていないし、インド人ほどみじめではないし、アイルランド人ほど狂信的ではないし、アメリカ人ほどギャングではないし、イタリア人ほど卑怯ではないし、ロシア人ほど監視されていない。
だから幸福だ。(ヴォランスキー) : P.364 ジェローム・デュアメル(吉田城訳)「世界毒舌大辞典」大修館書店
まぁ好き勝手なことを言っているようですので、♪私も負けずに 励んだあとで♪〔南国土佐を後にして〕
日本人はこう考える。
私は、フランス人ほど尊大ではないし、イギリス人ほど二枚舌ではないし、ギリシャ人ほど自己中心的ではないし、北朝鮮人ほど狂信的ではないし、韓国人ほどひきょうではないし、中国人ほど無法者ではないし、アメリカ人ほどツバをはきちらさないし、ロシア人ほど独裁に管理されていない。
だから幸福だ。(はと)
さて、この
私の「各国人のとらえかた」に異論があると思った方は同様に、同じフランス人でもヴォランスキーの「各国人のとらえかた」に異論をもつ人がいるはず、と思うでしょうね。
私の発言によって、フランス人がみんなヴォランスキーの主張に賛成しているとは限らない、ことに初めて気付いた人もいらっしゃるでしょう(笑)。
もしそう思っていただけたならば、まずある(フランス)人の見解を示し、そのあと私(日本人)の見解を示した「甲斐(かい)」があった、というものです。
こういうのを「客観性」と言うのでしょうか。
- いろいろな見方があっていいのです。むしろなければいけません。一色というのが一番あぶない。
- まずほとんどの朝鮮半島人や中国人には、あり得ないこの「客観性」。言い替えると、偏見に満ち満ちた民族と言えましょうか。もちろん数少ない例外の人が見られますが、残念ながらそれは主流派とはなり得ません。
- しかし、その「非客観性・偏見」の裏側を見抜くには、そうとうな知識と、そうとうな見識とが、必要なのでした。
自分の主観性をも大切にしながら、相手の主観性をも大切にできる客観性、こういう「主観と客観」の両方を尊重する姿勢は、なかなか両立しにくいものですね。