桂米朝〔1925/11/06-2015/03/19〕が亡くなったことについては
- 2015/03/20付けの当ブログ記事「桂米朝、逝く」で書きました。
- 戦後になって、戦前の上方落語家の多くが亡くなり、上方落語は消えてしまった、とされました。戦時中の混乱により、やり手と受け手の両方の事情から、芸の伝承が困難になったということでしょう。
- 下で引用する話によれば、大阪特有の商売の影響もあったといいます。
- 上方落語が消えかかっていた時代に、松鶴・米朝・春團治・文枝(かつての桂三枝ではない)などが、いまでは想像できないほど苦労して復興に尽したのであり、そういう事情は、知っておいたほうがいいと思われます。
「寄席」というのは
毎日興行している東京や大阪の席亭のことで、だいたい今では月を3回に分けて10日毎に内容を変え、毎日落語・漫才・奇術などを10分~15分程度の短い周期で繰り返しています。大ネタは聞けない場所でしたが、昔はこういうところでしか落語を聞けなかったものです。
今では、ホール落語というのが当たり前になっていますが、これの元祖はやはり桂米朝だったようです。亡びかけた上方落語を復活させるには、全国を回らなければならず、そういう実力と自信を兼ね備えていたのです。
立川談志〔1936-2011〕の場合も、師匠である柳家小さんと衝突して落語協会を脱退したため都内の寄席へ出演できなくなり、全国でホール落語をしてきました。いいことなら桂米朝〔1925-2015〕のマネも悪くありませんが、談志の根性はそうとう悪かった(笑)。
談志は、米朝よりも遅く生まれ、米朝よりも早く亡くなりました。
桂米朝の声色(こわいろ)もピカイチで表情も豊か、登場人物が多い噺には最適ですし、その上、話がおもしろい。さらに学者肌の米朝のおかげで消えかかっていた話を復活させたのですから、現在の上方落語の隆盛の一番の功労者は桂米朝だ、と断言していいでしょう。
何よりも桂米朝が上方落語の「品の良さ」を日本全国に広めた功績は、筆舌に尽しがたいと言えます。
笑福亭松鶴の落語が大阪の庶民の姿をそのまま表現したからと言って、「上方落語の品性を落とした」わけではありませんが、松鶴の落語のままでは全国に通用しなかった、とは言えるでしょう。落語家には、それぞれに偉大な価値があるのと同様に、その人ならではの「持ち分」もまたある、これを忘れてはいけないようです。
今回は、かなり古い時代、昭和51年(1976年)に発行された角川文庫「古典落語10上方ばなし」からの引用です。
11話が収められたこの本には、当時51歳の桂米朝落語「地獄八景」「皿屋敷」の2本が、活字として収められています。
この本の最後に「解説」として藤井宗哲がまとめているので、これから抜粋してご紹介することにします。
なにしろ40年も前の古い文庫本で、開いてみると、文字が印刷された部分は黄色っぽくなってはいるものの白い部分が多くて読めますが、周辺部分はみごとなワイン色に変色しています。よくぞこんな本を破棄せずに保存したものだと、われながら感心しているところですが、そのおかげで、ここでこうして引用でき、皆様にお伝えすることができるのでした。
なお僧侶にして演芸評論家・料理研究家の藤井宗哲〔1941-2006〕については、こちら1 こちら2 などをご参照下さい。
では、どうぞ。
解説
「落語」と言えば、つい最近、3、4年前まで大方の人が思い浮べ、また問われて返ってくる答が、志ん生、文楽、門生、小さんであり、志ん朝、談志、円楽の若手の名前がためらうことなくあげられ、「てやんでえ」「べらんめえ」に代表される歯切れのいい言葉で描き出される長屋もの、武家もの、廓ものの演題をすらすらっとならべてくれるぐらい、東京もしくは江戸のくらしをテ一々にした作品が落語であると思われていた。因みに京・大阪のくらしをテーマにしたはなしは? はなし家は? と質問しても、東京のそれのようなわけにはいかなかった。
そんな工合だから、上方落語は、東京落語と同等な評価すら多くの人の間で受けていなかったようである。その一例として次の2人の対談は印象深い。
江国「そういえば、米朝さんがはじめて東京で独演会をひらいたときに、えゝと、あれはもう5、6年前のことでしたかね」
米朝「昭和42年5月やったと思います。紀伊国屋ホールでひらいたじぶんでっしゃろ」
江国「そうです、あのときに、プロデュースした矢野誠一君が、プレイガイドにポスター置きに行ったら、窓口のお嬢さんが・・・・」
米朝「『桂米朝土方(どかた)落語会』」(笑)
(中略)
江国「・・・・とにかく、プレイガイドの窓口嬢といえば、一応は興行の専門家ですよ。その専門家にドカタ落語会と読まれたくらいそれまでは影がうすかった」〔米朝上方熟語選 対談・落語・東と西」(立風書房)〕
「その理由は・・・・やっぱり言葉の問題が大きく作用していたのでは……」ないか、と言った人が居たが、しかし、私は、いちがいに、それだけのことでなじみが薄かったとは言い切れないものがあるように思われる。
新幹線に乗れば3時間で京・大阪へ着く。そしてテレビやラジオ等で喜劇や万歳(このことについては後で述べる)の、世にいうお笑い番組、古く近松や西鶴はこの際別にしても、夫婦善哉や山崎豊子等の一連の小説、その他の文学作品からおして、米朝さんのいう、京・大阪・神戸あたりまでを上方と呼ぶとするなら、他の2都はともかく、大阪のみについての、言葉なり、生活感情なりを、われわれはわずかながらでも予備知識として持っていたはずである。そしてまた、それらをなんとなく理解できてきたのではないだろうか。ところが……である。どうして落語のみが(少なくとも)東京の地において、つい最近まで、なじみが浅かったのか、と考えてみると(これはあくまで、私のみの思いつきのようなものかもしれないか)冒頭に書いたように、多くの人が落語と言えば、文楽であり、志ん生であり、誰某である、と、自分達が、直接耳で聴き、目で見、慣れ親しんだ人々の芸しか認めようとしなかったのか。これは東京人の一種保守的な感情・風土がそうさせてきたのではないだろうかと思うのだが・・・・・・。
先述の米朝さん以外にも、戦前戦後を通じて名人上手と称された何人もの人が東京で演ったという。が、いつも、その演者の名前を見ただけで、東京の人は「『なんだ、聞いたことがないな』って、はじかれて」(前出の対談より)しまったようであったという。もちろんそれだけの理由で、なじみが薄いというのではないが。
ここ数年来の上方落語は大盛況といってもいいすぎではない。東京を例にとっても、上方落語の師匠たちの演る会はほぼ満員の客数で、少なくとももう土方落語会などと読む人もいなくなったようである。まずは目出たいことである、といわなければなるまい。そして、聴く人々も東京落語にはない上方の味を楽しんでいる。
先日も、上方ばなしの会で「住吉駕寵」を熱心に聴いていたある若い客が、「あれ、これは『くも駕寵』じゃないか」と、ささやきあっているのをそばで聞いていて、「そうなんですよ」とは、言わなかったが、現在、東京の高座にかけられている、俗にいう江戸落語と呼ばれている数多くの作品に、上方ダネと見間違うものがなんと多いことであるかと気付くであろう。しかし、決して偶然に同じような作品が、高座にかけられているのではない。まごうことなく、上方ばなしである。それを、東京風に焼きなおしたものなのである。
上方の「貧乏花見」が「長屋の花見」であり、「逢いもどり」が「子はかすがい」「いらち車」が「反対車」、「書割盗人」が「だくだく」、「くやみ丁稚」が「胡椒のくやみ」、東京では有名な「たらちね」「野ざらし」などは「延陽伯」であり「骨つり」と、数え上げればきりがない。
われわれが、上方落語を聴いていて、東京落語との大きな違いに気付くのは、はなしの途中で鳴る"お囃子"であろう。向うでは〝はめもの″といって、上方ばなしでほ絶対にかかせない重要な役割を果している。このはめものの効果は、「・・・・主従は無礼講、その道中の陽気なこと、・・・・」(「野崎参り」)で〝はめもの″が入る。
それは、単にはなしの雰囲気を盛り上るだけではなく、「野崎参り」を例にとれば、参詣の大勢の人の歩くさまを表現し、時にはみごとに場面転換をさせている。同時にお囃子の強弱によって遠近感を如実に出してくれている。と、いや、そればかりではなく、
江国「あのはめもので、はなしに奥行きが出てきますね。立体感が感じられるばかりでなく色彩まで目に見えるようです」
米朝「雰囲気がただよいますな」(前出の「米朝上方落語選」の対談より)
この〝はめもの〟は、おそらくは歌舞伎からの影響であろう。そしてこれによって、聴き手へ、より一層のイメージを強調するところなどは、上方人特有のサービス精神、親切のあらわれかも知れぬ。
さきほど、上方落語が東京においてはなじみが薄いと書いた。と同じように、私が知ってからの戦後長い間、本場である上方においての位置も、決して評価されていたのではなかった。では、大阪も東京同様保守的であったか、ということになるが、もっと異ったところで、その価値を認められなかった。と、いった方がよい。
戦後まもなく、それほど多くもなかった上方落語界の重鎮が相ついで亡くなった頃に、いま第一線で活躍している(その頃は東京でいう前座クラスだった)ある人などは、兄弟弟子と語りあって、「少なくとも、われわれの手で、身体で、人のやらない、めずらしい話を集めて次の世代へ残しておこう」と、発掘作業に時間を取られ、消化する時間が長かったことも一因である。いやそれだけではない。もっと大きな原因は、興行システムにもよるであろう。上方の笑いは、万歳に代表されるくらい、大阪の寄席(というよりも東京でいう小劇場に近い)のプログラムを見ると、万歳の上演本数が圧到的に多く、落語は、わずか2、3本しかプログラムに組まれてはいない。
経営者にしてみれば「話芸の伝承よりも客の喜ぶもので」芸のよし悪しは別にして、商品としての価値のみを評価していたことにもよるのである。もっとも、経営する側からみれば、あたりまえすぎるぐらいあたりまえな経営方法ではあるが。
聞くところによれば、このところ、上方落語協会のメンバーが、70人とも80人とも若手が増えてきたという。戦後間もなく先代松鶴、米団治、2代目染丸、先代春団治と相ついで亡くなり、昭和25、6年頃には、ついに「上方落語の灯は消えた」ときえ新聞に書かれたのを読んだことのある私には、現状を見ると信じられないくらいの盛況である。それだけではない。若手のはなし家の東上来演までも、多くの客を集めている。一昔前は落語といえば、〝東京落語″と確固たる世界が構築されており、上方落語は東京寄席の形態からみれば、単に〝色物″的存在でしかなかったことを思うと隔世の思いである。
その陰に、本巻に収録されている各演者の「闇屋でもなんでもして、なんとか、次の世代に残そやないか」と語り合った、悲壮なまでの意気込みが今日をもたらしてくれたのである。私は戦後上方落語を思う時に、いつも中国の百丈禅師を思い浮かべる。
道場の裏の木一本もない禿山に毎日あきずに残飯残菜をまき、小鳥を集め、その糞が肥料となり全山を森林と化せた、というそのエピソードを。
先日も米朝師と会った時にたまたまその話をしながら「いいことですね」と言うと、「なにがよいやらあくびやら」と西鶴流に酒落てはいたが(どうしてどうして、こうした中でも"一個半個の無位の真人"が出て来たことには間違いないのだから)、と思いながら、「ザッパクな言い方かも知れないがまずは僥倖のいたりです」と、答えたのを覚えている。
藤井宗哲
:P.287-293 解説「古典落語10上方ばなし」上方落語協会編 角川文庫 昭和51年9月29日3版発行
引用文では
かつて関東では切符売り場の若い女性が「上方落語(かみがたらくご)」を「土方落語(どかたらくご)」と読んだ、という爆笑思い出話が紹介されていますね。
これを聞くと、江戸末期の土方歳三〔ひじかたとしぞう 1835-1869〕を「どかたとしぞう」と読む人を思い出しますが、新撰組ブームがおこってからは少なくなったかも(笑)。
いや既に「土方(どかた)」という差別用語?が死語になっているので、笑う人も存在しないと思われますが・・・・(笑)。
落語そのものについて
かつて立川談志は「落語とは業(ごう)の肯定」と言って、多くの人(主に関東地域で)の賛同を得たようですが、私の見方はまったく異なります。
談志がわざわざ「業(ごう)の肯定」と称して喝采を浴びたという事実から、関東では「人間の業が否定されていた」事情を連想させます。表面的な元気良さを強調するため「業」は否定されていたのでしょう。
しかし、関東以外の地では「人間の業など想定内」だったのに比べると、関東の文化が、いわば世界の歴史で見る時のアメリカ文化と同じように、まだ若く未熟で成長段階にあったから、と言えるでしょうか。
それから興味あるのは「お囃子(おはやし)」のことです。
藤井宗哲は、「はなしの途中で鳴る」のをお囃子としています。たしかに上方落語では、噺の内容によって、途中で三味線を含む鐘太鼓が、賑やかに、あるいは、しんみりと、響いてくることがあります。
しかしこちらによれば、明治期には江戸落語でも出囃子は片しゃぎり〔鐘太鼓のみ〕だったのが、大正期以後になって江戸落語でも「(三味線入りの)出囃子」が取り入れられたようですから、
- 噺家が出てくる時の出囃子
- 噺の中で鳴らす「はめもの(はめ物)」
の音楽としての三味線入りのお囃子は、どうやら上方落語から入ってきたものだったようです。
どうやら私は、これの影響もあったのでしょうか。詳しく言えば
- 幼少時(非大阪の関西生まれ)、隣に三味線の師匠が住んでいて、近所の人が習いに来ていたらしく、ときおり三味線が響いていた記憶がある。
- NHKテレビの番組「シルクロード 絲綢之路(しちゅうのみち)」の関連で五弦琵琶を聞いた。
- 長じて上方落語を聞くようになり、出囃子や途中のはめ物で三味線に接した。
- その後、大阪で「地歌三味線(じうたしゃみせん)」を1年半ほど習った。
- その後、関東に移り住んで、落語の出囃子だけで三味線を聞くようになった。
- 旅人として1年に1回程度、石垣島へくるようになり、沖縄の三線音楽にも触れ始めた。
- そして池袋で、毎週1回の1年だけでしたが、沖縄の三線(さんしん)を習った。
- 今では石垣島に住んでいる。
こんな経歴でしたので、考えたら「普通の人間として」の程度ですが、三弦とは切っても切れないほどの関係があった、と言えますね。
そんな私の「寄席の落語観」
- せいぜい15分と、短すぎるので、大ネタを期待することは無理
- ただし若手の噺家にとっては絶好の修行の場所であり、ここで失敗したり成功したり、けっこう腕を磨ける場所だ
- 落語ブームになり、なかなか寄席で座って聞けなくなった
- 観客に「どしろうと」が多すぎ、大勢できてのぺちゃくちゃおしゃべりはうるさいやら、せんべいなどをポリポリ食べるやら、どうしようもない
- 聞きたい落語家の出演日とこちらの都合のいい日が、なかなかあわないこと
だからこそ、30分~45分が期待されるテレビやラジオの落語に興味が移ってしまうのですね。録画録音しておけば、いつでも、自分の都合のいいときに視聴できるのですから(笑)。