July 9, 2018
私の住む団地の住まいは、道路を隔ててマンションがあり、その隣は空地になっていた。急行が止まる小田急線の駅まで徒歩7,8分の立地条件は、当然何か建物が建つだろうとは思っていたが、今年になって集合住宅の建設が始まった。背の高い重機の風景や建設作業の騒音は、窓を閉めていれば気にならないとはいえ、何か気持ちをいらだたせるものがある。昨年までは、こういった環境を逃れて図書館に行ったり映画館に逃げ込んだりしていたのに、今年になって、家から出ることが億劫になってきている。友人のブログを覗くと、お妹さんとドイツ旅行をされたとのことだ。私よりは大分お若い方ではあるが、なんだかうらやましい。「ふらんすへ行きたしと思へども・・・」とはじまる萩原朔太郎の抒情詩の心を感じている自分がおかしい。グローバルな時代に生きているといっても、ドイツもフランスも、今の私には朔太郎の頃と同じく遠い場所だ。
ここ数日の豪雨は、西日本に大きな被害をもたらしている。テレビの画面を見つめている自分が何か罪深い気持ちになるような画像が映し出されている。それぞれにはぐくんできたであろう命が、自然の力の前にもろく崩れ去っていくのが悲しい。軽々に言えることではないだろうが、政府の姿が見えないように思えるがどうだろうか。毎年繰り返される土砂崩れや河川の氾濫は、未曽有のという言葉だけで終わっていいものだろうか。様々な疑問が膨らんでくる。
うえの文で触れた萩原朔太郎の短い詩の全文を次に載せよう。ずいぶん依然、このブログで引用させてもらったことがある。
旅上
ふらんすへ行きたしと思えども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままな旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。 (日本詩人全集、新潮社)
画像は、「アガパンサス」。通り道のお宅の玄関先にあるのをパチリ。