February 12, 2014
先日、NHKの深夜便を聞いていたら、江戸文化研究家の田中優子さんが、お父上は貧しくて小学校しか出られなかったが、本が好きで、本が読めると思って本屋に就職したら、まわりに本はあっても、それらの本を読む暇はなかったそうだ、といったことを話されていた。この時ふと思い浮かんだのは、中学生のころに読んだ島木謙作の本だ。教科書に載っていた『赤蛙』から、何に惹かれたのか、島木健作の本を次々と読んだ。その中に、本の題名は覚えていないのだが、主人公が丁稚として本屋で働くうちに、本の知識を体得していく過程が描かれていたような内容だったと、かすかな記憶の中にある。たしかこの本も、労働者として本屋で働く者の姿がえがかれていたと思う。私の思想の原点がここにあったように思えるので、田中優子さんの言葉は、とても印象深かった。
私は、若い頃は、今のように暇があれば本を読みたいというようなことはなかった。ただ父が読書家だったために、戦後のいろいろな事情の中で、どんどん小さな家に移っていっても、本だけはいつも身の回りにあった。あの頃家にあった世界文学全集や日本文学全集で読んだ知識は、後々ずいぶん役に立ったように思う。「本」について少し書いてみたいと思ったのは、ここ2,3日で読んだ、三上延『ビブリア古書店の事件手帖』と斎藤孝『古典力』のせいかもしれない。前書は、本屋大賞を取った、いわゆる若者向けの売れ筋の文庫本で、今回5卷目が出された。まあ内容は軽いものではあるが、本の名前がいろいろ出てきて、面白い。あまりポピュラーでないものもあるので、読んでみたいといった気持にもなる。『古典力』の方は、題名通りの古典への入門書のようなものだ。私はあまりこういった教科書的な本は好きではない。実際この本もそれほど魅力がある本だとは思わないが、トータル的な知識に欠けている私の、今生最後の勉強の意味で、さっと目を通した。
こうした本にまつわる本を読んでいると、自分の本との出会いの数々が、思い出の中のひとこまとして浮かんでくる。最初に触れた島木健作についても、ふっと思い出したことのひとつだ。そんな連想が浮かぶとき、ああもう一度あの本を読んでみたいと思ったりするが、たぶん読んだ当時に感じた感動はないだろう。そんなことを考えながら、図書館を利用すればたいていの本が手元に届く環境に感謝して、あまりより道をせずに、新しい本を読み続けていこうと思う。
まとまりのないブログになってしまい、下書きに入れて、オリンピックのカーリングを見ていたらすっかり忘れて、1日経ってしまった。明日はまた雪日になるらしいとの予報を聞いて、急いで図書館に届いている2冊を取りに行ってきた。図書館の開館が9:30なことは承知しているのに、図書館に8時30分についてしまった。1時間勘違いしたのだが、いよいよ「老兵は消え去のみ」の言葉に従わなければいけないのかと、少しがっかりする。借りた本の1冊、橘木俊詔『「幸せ」の経済学」』(岩波現代全書)を見ながら、ローカルで最寄りに駅に戻った。数ページ覗いただけだが、序章の中に古今東西の碩学たちが「幸せ」をどう考えてきたかに触れている。アリストテレス、カール・ブッセ、メーテルリンクなど、私たちになじみの幸福を説いたた人たちの最後に、イギリス人のバートランド・ラッセルの幸福論が短く語られていた。「ラッセルは、精神的な幸福を論じるよりも、人間の実際の生活に即したことから幸福を見ています。自分の中に閉じこもるだけでなく、外に目を向けて役立つ仕事をすることが、幸福につながるという、実践的な幸福論だと理解していいでしょう。」(『「幸せ」の経済学』岩波現代全書)と、本書の著者橘木俊詔氏は書いている。
ラッセルの考え方は、私にはとても受けいれ易く、幸福についてのこの指摘も納得できる。しかしそれもある年代までのこと、さらに別の思想を探さなければならないのかもしれない。つまり自己の中で完結できる幸福論である。この本を読了したときに、何かヒントが得られるかもしれない。まとまりのないブログを引き延ばしてしまったが、この辺で終わりにしよう。
画像は、妹のメールから、マリリンモンロー(シンビジューム)。咲きほこっている花を見ていると、蘭に魅せられる人たちの気持ちが分る。
先日、NHKの深夜便を聞いていたら、江戸文化研究家の田中優子さんが、お父上は貧しくて小学校しか出られなかったが、本が好きで、本が読めると思って本屋に就職したら、まわりに本はあっても、それらの本を読む暇はなかったそうだ、といったことを話されていた。この時ふと思い浮かんだのは、中学生のころに読んだ島木謙作の本だ。教科書に載っていた『赤蛙』から、何に惹かれたのか、島木健作の本を次々と読んだ。その中に、本の題名は覚えていないのだが、主人公が丁稚として本屋で働くうちに、本の知識を体得していく過程が描かれていたような内容だったと、かすかな記憶の中にある。たしかこの本も、労働者として本屋で働く者の姿がえがかれていたと思う。私の思想の原点がここにあったように思えるので、田中優子さんの言葉は、とても印象深かった。
私は、若い頃は、今のように暇があれば本を読みたいというようなことはなかった。ただ父が読書家だったために、戦後のいろいろな事情の中で、どんどん小さな家に移っていっても、本だけはいつも身の回りにあった。あの頃家にあった世界文学全集や日本文学全集で読んだ知識は、後々ずいぶん役に立ったように思う。「本」について少し書いてみたいと思ったのは、ここ2,3日で読んだ、三上延『ビブリア古書店の事件手帖』と斎藤孝『古典力』のせいかもしれない。前書は、本屋大賞を取った、いわゆる若者向けの売れ筋の文庫本で、今回5卷目が出された。まあ内容は軽いものではあるが、本の名前がいろいろ出てきて、面白い。あまりポピュラーでないものもあるので、読んでみたいといった気持にもなる。『古典力』の方は、題名通りの古典への入門書のようなものだ。私はあまりこういった教科書的な本は好きではない。実際この本もそれほど魅力がある本だとは思わないが、トータル的な知識に欠けている私の、今生最後の勉強の意味で、さっと目を通した。
こうした本にまつわる本を読んでいると、自分の本との出会いの数々が、思い出の中のひとこまとして浮かんでくる。最初に触れた島木健作についても、ふっと思い出したことのひとつだ。そんな連想が浮かぶとき、ああもう一度あの本を読んでみたいと思ったりするが、たぶん読んだ当時に感じた感動はないだろう。そんなことを考えながら、図書館を利用すればたいていの本が手元に届く環境に感謝して、あまりより道をせずに、新しい本を読み続けていこうと思う。
まとまりのないブログになってしまい、下書きに入れて、オリンピックのカーリングを見ていたらすっかり忘れて、1日経ってしまった。明日はまた雪日になるらしいとの予報を聞いて、急いで図書館に届いている2冊を取りに行ってきた。図書館の開館が9:30なことは承知しているのに、図書館に8時30分についてしまった。1時間勘違いしたのだが、いよいよ「老兵は消え去のみ」の言葉に従わなければいけないのかと、少しがっかりする。借りた本の1冊、橘木俊詔『「幸せ」の経済学」』(岩波現代全書)を見ながら、ローカルで最寄りに駅に戻った。数ページ覗いただけだが、序章の中に古今東西の碩学たちが「幸せ」をどう考えてきたかに触れている。アリストテレス、カール・ブッセ、メーテルリンクなど、私たちになじみの幸福を説いたた人たちの最後に、イギリス人のバートランド・ラッセルの幸福論が短く語られていた。「ラッセルは、精神的な幸福を論じるよりも、人間の実際の生活に即したことから幸福を見ています。自分の中に閉じこもるだけでなく、外に目を向けて役立つ仕事をすることが、幸福につながるという、実践的な幸福論だと理解していいでしょう。」(『「幸せ」の経済学』岩波現代全書)と、本書の著者橘木俊詔氏は書いている。
ラッセルの考え方は、私にはとても受けいれ易く、幸福についてのこの指摘も納得できる。しかしそれもある年代までのこと、さらに別の思想を探さなければならないのかもしれない。つまり自己の中で完結できる幸福論である。この本を読了したときに、何かヒントが得られるかもしれない。まとまりのないブログを引き延ばしてしまったが、この辺で終わりにしよう。
画像は、妹のメールから、マリリンモンロー(シンビジューム)。咲きほこっている花を見ていると、蘭に魅せられる人たちの気持ちが分る。