つれづれごと。

SD他、管理人葉月の日常の中で思うことを綴ります。※SDに関しては、必ず5/29「はじめに」をお読み下さい。

ごちゃごちゃなのにこれしかない。

2022-02-17 13:02:58 | 日常雑記

遡ってみたら、人形ブログとして始めてたこのブログ。葉月も忘れてました(苦笑)。題名をつけるとき、他所で言えない本音を吐く場所と思ってつけたので、そちらが本道になってしまってました(苦笑✕2)。

カトリックとの出会い、洗礼、いくつかの病気、いろんなことがありました。

昨年からは、仏法とのご縁。まだ定期的にお寺に法話を聞きに行ってる訳でもないし、方法もよく分かってないですが、仏壇に手を合わせるようになりました。

カトリックの祭壇もちゃんとあります。こちらはたまに拝んでます。たまに、というのはちょっと理由があって。主に私がいい加減なのと、私の神父様は聖母崇敬に熱心でなく(これは理由があります。日本の教会は聖母崇敬に偏っている、とおっしゃっていたので。教会の中心はイエズスです、ともよくおっしゃっていました)、日々のおつとめのようなことは習いませんでした。

本来ならこういうのは代父代母に習うのかもしれませんが、私の場合、代母が洗礼当日変更されたので(洗礼予定の人が一人減ったので繰り上げされたらしい?)、お互いに親しみがわかず、その後交流ができることもなかったのです。最初の方とは、仲良くできそうだと思っていたので、その方を代母としたかったのですが、こちらの方も個人的な付き合いはなかったので、そのままとなりました。

で、何にもよく分からなかったので、洗礼後にいろいろ本を読んだり、教会でできた友達に質問したりして、何とかしたのですが、…今思うと、もっと基礎的なことから習わないといけなかったと思います。幼児洗礼の方なら、幼少期に親や日曜学校で習うようなもの。心構え、というのかな。

成人洗礼だったので、理屈が先走ってしまった(私の場合はですが)のかもしれません。

なので、お祈りの習慣がつきませんでした。つけようとやってもみたのですが、結構難しい。どうやっておつとめをしたらいいか、実は今でもよく分からないです。聖書を使って祈っている方もいましたし、お祈りの本を見れば朝昼晩の祈りをしてるようでもありますし。

どうであれ、イエズスの御名を唱える祈り、とか、祈ればいい、という風にうけとって、祈りたい時に祈る感じでした。

それがコロナで一変しました。

主の思し召し、でも、困惑してしまって祈れない。信仰薄いです。その先に何をご用意なさっているのか、必ず良きように計らって下さる、と思うのと、でもコロナに関してはまったくどう思っていいか分からない、という困惑が強くて、両極端で祈れない。そんな日々でした。

そして主人の身内が亡くなったことで、仏様とのご縁ができました。

こちらは、主人は檀家になっているお家の子だったので、なんとなくでもおつとめが分かっていたので、わりとすんなり習慣化しています。

…宗教というか、信心するための行動というのは、人から伝わるものなのかもしれません。

 

はたからみたら、神棚も仏壇も祭壇もある混沌とした状態に見えるだろうな、とは思いますが。

でもこれしかない、という不思議な状態です。

コメント
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