つれづれごと。

SD他、管理人葉月の日常の中で思うことを綴ります。※SDに関しては、必ず5/29「はじめに」をお読み下さい。

ちょっと悲しいこと。

2023-12-07 18:05:02 | 仏教

どこで見たのか忘れましたが、ネットのどこかで見た言葉。

「出家しないと本当の仏縁は得られない」

どこかのお坊さんが書いてらした言葉です。ちょっと悲しい言葉。

ああいや、分からなくはないんですよ。僧侶は厳しい修行をして受戒してる訳で、普通の信者というか、在家とは別、在家では出家と同じ仏縁は得られない、と言いたいのだと。

それは当たり前なので(在家と出家じゃ役割が違う)、わざわざ「本当の仏縁は得られない」なんて言わなくてもよくないですか。だったら在家の仏縁は偽物だと言うのでしょうか。

大体みんな出家しちゃったら、お寺支える信者がいなくなっちゃうんですが。

偽物だとは言ってない、とおっしゃるかもしれませんが、言葉で言わずとも通じることはあると思います。だからこそ言葉は気をつけて使わないとまずいのです。

 

こういうの、カトリックでもありました。カトリックになる人はより神様から可愛がられてるからなる、とか。これは年配の信徒さんの発言ですが。

宗教は違いますが、なんでこんなこと言うんだろう。自分たちはより本物が得られていて偉いと言いたいんだろうか。より神様から愛されてると言いたいんだろうか。

こういうの聞くたびに、とても不愉快で悲しいです。もしかして信者減らしたいのかな。いやそんなつもりはないんだろうけど。

 

私の考えですが、おそらくみんな、仏縁もあるだろうし神様からの愛もあると思うんです。それがより濃いか薄いか。他人と比べるのでなく、各個人の中でどの縁が濃いか薄いか。それくらいの問題ではないかと。

しかし…悲しいです。

 

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どうやって信心するもの?

2023-09-27 18:29:29 | 仏教

これ、ものすごく、初歩的だと思われますが、私にとっては切実な疑問でした。

今は日本人は総無宗教かな?昔は「とりあえず」仏教徒、と言っていたと思いますが。サリン事件以来、宗教というと「うさんくさいもの」の代名詞になってしまったような感じがします。

で。実家は神棚も仏壇も祀っていなかったので、「信心の仕方」がよく分かりません。

昔話とかだと、熱心に寺に参詣しているので「寺参りする」のが信心の形なのかな?念持仏、というのもありますが、あれと仏壇ってどう関係するんだろう?念持仏を持ったらどうするの?主人は私よりちょっとは詳しいので(お祖母さんがちゃんと仏壇のお勤めしていたようです)、とりあえず毎日のお勤め、定期的に参詣(月ごとなら「月参り」ですね)をする、ということなので、そのようにやっていました。

で。和尚様に聞いたり調べたりした結果、天台宗とか密教系だとこんな感じみたいです。

・毎日のお勤め

・お祀りしている仏様の真言を108回唱える(数珠一周分)

・念持仏→仏壇の流れであっているようです。でも一般人でも今みたいな仏壇をもつのは江戸時代、徳川の檀家制度ができてからのようです。

・定期的に信仰しているお寺にお参り

何となくですが。仏教って日本人に合うような気がします。

カトリックと比べると色々と費用がかさむのですが(檀家でなくても)、でもお寺さんって費用かかるんですよ。お供物ひとつとっても結構するし(お金の話で恐縮ですが、庶民の私だと臆してしまうような話も結構あります)、供養料とか高くても仕方ないのかなぁと思ったりします。お香とか、いいの使ったら値段は天井知らずです。…香木一グラム五万とか八万とかしますからね。

そして線香は煙をあげた方がいいらしいですが、あれでアレルギーっぽい症状が出る私は、基本的には匂い袋をお供えして、どうしてもの時だけ焚いてます。お香の空焚きにしたりもしています。

うーん、これでいいと思って普段やってるのですが、ほんとにこれでいいのかな。

葉月はやるとなると根を詰めてがっちりやるのですが、やり過ぎて飽きちゃう、というタイプなのです。なので、飽きないようにするためには、小出しに小出しにやっていかないとなりません。

ゆっくり、ゆっくり。

お薬師様とお大師様と一緒です。

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写経してみました。

2023-09-04 14:45:42 | 仏教

実はずっとやってみたかったんです。できれば筆で。

が、親には「意味もなくやっちゃだめ」と言われ。だんだん、やってみたい、とは思っても手が出せない、という感じになっていきました。

お寺に行くと写経体験、とかあるんですが、何故かあと一歩踏み出せず。

自分でやる本とかセットとか買ってみても、なんとなく敷居が高い気がして。何の敷居なのか自分でもさっぱり分からないのですが、何か駄目な感じで。

鉛筆orボールペンでできる写経の本を買い、ちょこちょこやってはみたのですが、なんとなく続かない。

そう、何故か、みんな「何となく」でできなくて。自分でも変な話ですが。

が、先日、お寺で写経用紙を頂きまして。

頂いたからには書きたい!と、しまい込んでいた写経用品を引っ張り出して、やっと、初の筆での写経を一枚しました。

何か気持ちよかったです。

願文に悩みましたが。書きたい、が目的だったので、かなえたい願いがあるわけではないんですよね。強いて言うなら、書いてることで願いはかなってる、というか。

なので「心願成就」にしておきました。

うん、やっぱり、時期がこないと出来ないものだ、と改めて思ってます。

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信貴山に行ってきました。

2022-10-23 13:48:54 | 仏教

今年は寅年、信貴山では毘沙門灌頂が行われます。

これは十二年に一度、結縁灌頂と呼ばれるもので、毘沙門天様とご縁を頂くものだそうです。

 

…実は今年に入るまで知らなくて、本来二月(寅の月)に行われるものなのですが、コロナで10月に延期になっていたので、慌てて予約しました。

その後、ぎっくり胸だの座骨神経痛だの半月板損傷だのと、いろいろありましたが、これには行きたい!とお祈りしつつ、頑張って行ってきました!杖つきつつ…。

詳しいことは他言無用なので書けませんが、よかったです。毘沙門天様大好きなのですごく嬉しかった。

残念なのは自分の足がまだ治りきっていなかったので、心ゆくまで信貴山を回ってお参り、という訳にいかなかったこと。タクシーは使いましたが、例えば駅構内とか、けっこう歩かなければならないところがあるので、途中で動けなくなったら困る!と自重しました。

うちは主人の仕事の都合で、申し込める日がそこしかなかったのですが、幸いにもそこが寅の日で(行くまで気づかなかった/汗)、おまけに天気も良くて、とっても良かったです。

夕食も朝食も頂きましたが美味しかったです。大昔、大学時代に合宿で富山の方のお寺さんに泊めて頂いたことがありますが(宿坊があるところ)、そこもご飯が美味しかった覚えがあります。お寺さんってお料理上手なのかなーとちょっと思ってしまいました。

また行きたいな~。次回の灌頂は12年後で、コロナとかなければ二月なので寒いでしょうが、元気でいたら行きたいなと思ってます。

灌頂でなくても、お参り行きたいです。いいところです。

…しかし、大学時代行った頃とは全然違うような??それとも私が行ったお寺を間違ってるんでしょうか。でも毘沙門天様が本尊で、壁を手で触りながら一周できたら願いが叶う、というところがあって(正確な言い回しを覚えてないのですが、そう言われてゼミのみんなで入った覚えがあります)信貴山縁起絵巻を見に行ったので間違ってないと思うんですが…うーむ。

間違ってないとしたら、今はすっごく栄えているお寺です。昔は情緒ある感じ、今は隆盛してるお寺さん、って感じ?

お守りも素敵なのが一杯。寅さんはひたすら可愛い。結構しっかりお守り買って帰ってきました。

 

そして昨日・今日と天赦日だそうで、昨日新しいお財布を買って、信貴山で買ってきたお守りをつけて使い始めました。

ちょっと気分が浮き立つ日です。

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報恩謝徳のご祈祷

2022-09-17 18:16:06 | 仏教

開眼していただいた仏様は、一年一度は拝んで頂いた方がいいそうです。

昔ならお盆にお出で頂くのでしょうが、我が家は檀家になっている訳でもなし、おもてなしできるような家でもなし、なので、ご本尊だけお寺にお持ちして拝んで頂くことになりました。

何を用意して良いか分からないので、お尋ねしたところお茶とお水はご用意下さるとのことで、開眼供養の時のようなお供え物はいらないとのこと。

お布施はどうしたら??さすがに聞けない。ググってみたけど、開眼供養までは書いてあってもその後のご祈祷のことまでは書いてない。

結局、この間のお施餓鬼と同じ額でご用意してみました。…少なかったり…しないといいなぁ。こういうところの常識がないのが恥ずかしい。我が家は無宗教だったので。

お水とお茶をお供えしてご祈祷して下さいました。三十分ちょいくらいかな。凄く気持ちのいい時間でした。

終わって帰宅して、ご本尊を元にお戻ししたら、何かふっくらしたような?感じがします。

なんだか嬉しいです。

 

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これも、ご縁。

2022-03-02 15:53:18 | 仏教

阿弥陀如来の尊像をオークションで購入しました。

葉月の守り本尊は阿弥陀様なのです。

しかし、あまりにもメジャーだとか、昔話でよく出て来るとか、父が父の家は浄土真宗だと言っていた(父はいろいろあって自分の家と絶縁してます)とか、その父が自分の名付けをしてくれたお寺が大っ嫌いだったとか(この辺は父の願望と関係しますので割愛します)、いろいろあって、何か好きになれない仏様でした。メジャーすぎて苦手ってところでしょうか。はっきり嫌いなのではなく、なんだか猫も杓子もみんな阿弥陀様になってしまうのが嫌、というか。

それが、何となく阿弥陀様を拝みたくなり。何となくオークションを見たら、一目惚れしました。

厨子付きの、切り金の入った阿弥陀如来座像。お値段はそこそこしました(この時はそう思いました)。葉月的には高価です。でもどうしても、このご像を拝みたくなりました。

それで、ちょっと考えて。最終日、誰も入札しなかったら入札してみよう、そして高値更新されたら諦めよう、と決めました(高価だというのもありますが、その時は私よりも必要とされる方のところに行くのだと思ったので)。

結果、入札→落札。やった!と喜び、手続きをして到着を待ちました。

到着してみると、画像で見たより立派で、ちょっと臆する自分(弱っ)。安置してみて、ふと気づくと、手にいい香りが移ってる!!…檀像です。仏像に最適の木材です。

…これ、私が拝んでいいんでしょうか。恐縮ものですが、お薬師様と伝教大師様のさらにお隣に並んで頂き、今は朝な夕なに拝んでます。

そういえば、人生最初に買った尊像は、お土産の鎌倉の大仏像でした。これは記念品としてのお土産で、拝む対象ではありませんでしたが、今でも実家にあります。

これもご縁ですね。

考えてみると、仏像はみんなご縁でお迎えしたような気がします。拝むものはもちろんですが、拝むのでなく、持っていたくて買ったものも含めてそんな気がします。

まぁ広く言えば、全てはご縁なのですが、特に強くそれを感じた出来事の一つです。

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元三大師様

2022-01-28 13:02:56 | 仏教

元三大師様、ってご存じでしょうか。

恥ずかしながら、私は全然存じ上げませんでした。コロナ禍が始まってから、角大師の御札の話を聞いて、初めて知りました。

先日、意外と近くでお祀りされていることを知り、初めてお参りに行ってきました。実は関東の方で有名な「佐野厄除け大師」も元三大師様なんだとか。…東京生まれ東京育ちなのに、知らなかった…。こちらは平将門公を信仰する方は行ってはいけないお寺だそうですが(汗)。…うーん、それでは知ってても行けなかったですね。私、将門公好きなので。

近所のお寺はそういう問題がないので、お参りに行けました。ほっ。

角大師と魔滅大師の御札を頂き、玄関と勝手口に貼りました。表に貼れない時は、内側でもいいそうです。

あと、お守りをいくつか買って、最後におみくじをひいて帰ってきました。

角大師は厄除け、疫病よけにいいそうです。

 

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不思議に思うこと

2022-01-17 12:37:18 | 仏教

主人の宗派は天台宗ですが、天台系の勉強しやすい本って意外にありません。真言系は充実してます。なので、両方できる限りでお勉強中です。

しかし、ふと気づいた不思議なこと。YouTubeでもお話されているお坊さんで、虚空蔵求聞持法を修された方が、光に貫かれた、というお話をなさっていました。

あれ、これアビラの聖テレジアの体験と似てる?と思ったら、他の方の本で、やはり伸びてきた光に貫かれた、ということを読みました。

アビラの聖テレジアは痛みを感じた、とありますが、本で見た方のお坊さんも、痛みを感じた模様。

同じような神秘体験なのでは、とちょっと思っております。

 

さて、自分の方ですが。お祈りしていて、はたと気づいたのは、自分、いくつも許せないことを抱えているということです。

傷ついた時、その時点で時が止まっている。些細なことだったり、幼少期ではそれ以上どうしようもないことだったりするのですが、それら全てがその時点で止まっており、忘れているだけだということに気づきました。

これ、覚えておけるようだとやがて傷が癒えるのでしょうが、思い出してもすぐ忘れます。本当に、自分でもびっくりするぐらい忘れます。

お祈りしているとまた思い出します。また涙がでます。でもまた忘れます。

こうやっているうちに、癒えていくのではないか。今はそんな風に思います。

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ちょっと勉強始めました。

2022-01-15 13:16:43 | 仏教

昨年、主人の親族を亡くしたことがきっかけでお薬師さまをご本尊としてお迎えし、簡単な支度ではありますがお祀りをしています。

それから猫のみぃちゃんが亡くなり、そちらも供養をしています。

そうしたことがきっかけで、仏教の勉強を始めました。いや、信仰始めました、って感じです。

勉強だけなら90年代の仏教ブームの頃、結構はまって勉強していましたが、信仰は当時よく分かりませんでした。

 

仏教と神道とキリスト教と神道って並立するのか、というと、個人的な結論では並立できると思います。

仏教と神道は本地垂迹説がありますのでOKだと思います。問題はカトリック、一神教と多神教と共存できないんじゃ?って感じですよね。

が、世界宗教になるような宗教って結構共通点が多いんです。一番わかりやすいのは、仏教で言う「仏性」ですね。全てのものに仏性はある。キリスト教では、全てのものに神の息吹が宿る。聖霊が宿る、またはイエズスがおられる、と言います。神道も、全てに神がおられる、ですよね。

ちょっと乱暴なくくりでいうと、全ての中に聖なるものがあり、それをなんと呼ぶか、という問題に尽きると思います。

で、多分、なんと呼んでもいいんです。その人に合うよびかたで。神、でも主、でも、仏、でも。

共通点がなければ、エキュメニカルなんてできませんよね。何か身にしみました。

 

他にもいくつかありますが、あとはどれが自分にしっくりくるか、あるいはご縁があるか、だと思います。

 

さて、こうなるといいとこ取りみたいで、ご不快になられる方もおられるのは分かっているのですが、どれも正しいと思ってますので、どれも否定できません。したくもありません。

なので、まずはゆっくり理解していこうと思っています。

…というか、無宗教の両親のもとで育った葉月ですが、神道や仏教はやっぱり身に馴染んで楽なのです。しかし兄弟がミッションスクールに居たので、カトリックにもなじみがあり、これはこれで落ち着くのです。本人は落ち着きますが、はたからみたらカオスですね(汗)。

カトリックにいたから、今、仏教の勉強していて分かるところがあります。仏教の勉強してみて、カトリックで言われていることがやっと分かったりしてます。

一つの宗教でそれが理解できる方は、やっぱり頭がいいんだと思います。ほんとに。

私は一つでは理解しきれないから、あっちもこっちも学ぶことになってるのだと思います。だって、ほんとに一種類じゃ理解できなかった…。説明されてもよく分かってなかった(汗)お恥ずかしい。

…神仏も苦笑されてるかもしれません。

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