これも風水なんでしょうか。自分が読む限り、神道でも仏教でも同じようなことを言ってるので、日本人だとみんな知ってそうですが…。
いや、まぁ、それはよし。知ってても、まったく違うところから同じ事を言われることで、その大事さに気づけたりしますし。
大事なのは、はっきり表現できない気持ちをすっきりまとめてくれているところ、「もったいない」が発動して捨てられない自分に、捨てる理由をもらえるところ、なので。
個人的に思うのですが、あまりにため込み過ぎると、私は動けなくなるようです。
思考できなくなる、のかな。げんなりしてしまって、整理しようという元気がなくなる。
私に関して言えば、思考するためにはスペースがいるようです。
今回の引っ越しで言えば、大事なものから新しい家にある程度運んだところで、頭が働くようになった気がします。
うーん、でも、言葉にならない自分の気持ち、を代弁してくれているようで、カレン本、すっきりしますね。
そして、片付けと掃除をしていると、自分の問題点にも気づきがあるようです。
私は掃除は好きですが、片付けは苦手で、故に片付けると安心してしまい、もうしばらくしなくていいや、と投げ出す傾向があるようです。
今の家はある程度楽に掃除ができるようにしているためもあり、掃除が習慣化してきましたが、片付けも習慣化した方がいいかもしれません。
昔の習慣、「衣替え」「虫干し」はしなくてもいい方が楽だ、と思ってましたが、これをすることで片付けができる、のでもありますね。
なので、今年はこれをやろうと思ってます。
大がかりな「片付け」はそうそう繰り返したくはないですが、小さな片付けは繰り返さないと、きれいを保てないようです。
そして、片付けを繰り返しするからと言って、自分に価値がない訳ではない、ということにも気づきました。
片付けない、片付けられない、と叱られていたが故に(理由は以前の記事にも書きましたが、親にも問題ありですし、私の防衛反応ゆえでもあります)、劣等感を抱え込み、自分は駄目なんだ、と思う一因になっていました。
それで片付けられればいいんですが、片付けると、自分が駄目なことを思い知らされるようで、へこむんですね。つまり、こんなに苦労して片付けてるのは、自分が駄目だからだ、ちゃんとしてる人はこんなにしょっちゅう片付けてない、いつもきちんとしてる、なのに自分ときたら…という感じです。
でも、間違いですね。いつもきちんとしてる、という人は逆に、しょっちゅう片付けてる。私がするような大がかりなものでなく、さっとできる範囲でですが。片付け、とまでも言わないかもしれない。使ったものを元に戻す、ものの位置を決めてある、とか。住所不定の物を作らない。
住所不定のものを作ると、片付けができない、今回本当によく分かりました。
いつもきれい、をキープするなら、ちょっとの手間、を積み重ねた方が、大がかりな大掃除や片付けより楽なんだ、と初めて知りました。
いや、気づいてなきゃいけないんですけどね(苦笑)。お店などは毎日(どころか、大きなところは一日何回も掃除してますね)掃除してきれいを保ってる訳で。
学校は毎日掃除してもきれいではなかったので、あんまり毎日掃除する意義を見出せなかったのですが、思えば亡き母は朝晩二回の床掃除をしていたし、気がつくとあっちこっち拭いたり磨いたりしてたなと。まぁ、年を取って、その後家が建て替えで広くなって、大変だったとは思いますが、母が入院するまでは家に埃が溜まらなかったので、やっていたのだと思います(情けない娘ですが、床掃除以外は、成長後は見てなかったので)。
完全主義だと片付けも掃除も進まないので、一ヶ月で一回り掃除、季節ごとに服の整理、などと、家を回し続けることが、きれいを保つことなんだと今は思ってます。というか、それが楽しいんですね。回すことが。
まだまだ片付けは続きますが、楽しんでやっていこうと思います。