つれづれごと。

SD他、管理人葉月の日常の中で思うことを綴ります。※SDに関しては、必ず5/29「はじめに」をお読み下さい。

聖ペトロ、聖パウロ使徒のミサ

2005-06-29 11:56:47 | キリスト教(カトリック)

聖ペテロ、聖パウロ使徒のミサに行ってきました。
平日ミサなので、参加者は十人前後でした。
未信者は私だけ。
ちょっと恥ずかしいような気分でした。

今日は聖体拝領で、信者の方は聖体をうけたあと、祭壇に回ってキリストの御血となった葡萄酒に浸してよいとのことでした。
特別な日だからなのかな?

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祭壇

2005-06-26 23:04:59 | キリスト教(カトリック)
…というほどすごくないですが、昨日祝福して頂いた十字架を壁にかけ、マリア様の像とご絵とデコパージュ、以前購入した小さな守護天使像とマリア像を並べて、その前にろうそく立てを置いて、小さな祭壇を設けました。
どこで祈ってもいい、とはいうものの、やはり何もないところで祈るのは祈りにくい気がします。
当初、お祈りの言葉をネットで調べていて、初めてロザリオのお祈りを(主の祈りと、自分の言葉で勝手に祈るのは昔からやっていましたが)した時、最後の頃はどうもPCに向かって祈っているようで(!)、何だか変な感じでした。
祭壇があるとやはり祈りやすい気がします。

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デコパージュ

2005-06-26 00:27:33 | キリスト教(カトリック)
昨日行けなかったので、今日(これを書いている今は日付が変わってしまいましたが)女子サンパウロのお店へ。
サンパウロのお店とはまた違ったものが置いてあります(共通のものもありますが)。

お目当ては銀に青い七宝のマリア様のメダイ。
前回も欲しかったのですが、何となく購入しそこなったので。

そこで、とても素敵なデコパージュを発見!
天使二人を左右に、中央には聖家族と神様と天使達が描かれているもの。
神様を描いてあるものは、私はあまり見かけないので(他に知っているのはミケランジェロの天地創造くらい)、即決で購入しました。

夕方からミサへ。
昨日購入したマリア様の像と壁掛け十字架を祝福して頂きました。
でも、何というか、こんな程度の、信仰を持っていると到底言えないような私が、ご像の祝福をお願いするなんて、何か身の程知らずというか、恐れ多いような気がして、内心どきどきでした。
…というか、昨日購入したお祈りの本を読むまで、普通に「マリア像」って呼んでたし(像、という言葉がつかないと様づけが普通なのですが)。うっかり神父様の前でも最初そう言ってしまったし。
…知識がないと恥です

後、携帯ロザリオと言うんでしょうか、ポケットロザリオと言うんでしょうか、珠が11個のもの。
あれをどうやって使ってお祈りするのか調べています。
いえ、神父様にお聞きすれば早いんですが、何か恥ずかしいのです。

ロザリオ好きで、普通のは兄弟からもらっていたのですが、ポケットロザリオの方は先日長崎で、一目惚れで購入してきたものなのです。
何だか小さいけどいいかな、くらいの気持ちで。
ミニロザリオは普通のロザリオの祈りより回数が少ないのは判ったのですが、こちらはミニロザリオより珠が少ないし、これを使うお祈りの仕方がまだ探せていないので。

…まぁ、使わなくてもいいといえばいいんですが。


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雨の日フェア(注:毒吐きです)

2005-06-25 14:40:01 | SD
ボークスでの雨の日フェアに行きました。
昨日立ち寄った時にはすでにきれいにレイアウトして、布をかぶせてありましたが、今日はその布が外されて、お買い物できるようにしてありました。

…それはいいのですが…。
買い手のマナーが悪かったです。
きちんと並べられてある上から取っているのに、どうして元へ戻さずに違うところへ投げ出すのでしょう?
入って数分で、きれいに並べられていた服は崩れて、バーゲン会場のようにぐちゃぐちゃになってしまいました。
二つほど見かねて直しましたが、その前でまた散らかす始末。
反対側のスペースでは店長さんが片づけていました。

今までボークスに散々文句を言っていましたが、買い手もそれにみあったものなんだと思いました。
あれの一員だとは思われたくないです。
…たとえはたから見たら同じでも。
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洗礼者聖ヨハネの誕生のミサ

2005-06-24 21:24:16 | キリスト教(カトリック)
…の日ということで、教会に行ってきました。
平日のミサは初めてで、ちょっと緊張しました。人数も少ないし。

教会に初めて行った時に、神父様から貸して頂いた本は(ミサの式次第の本です)、実は下さったものだったと知って恐縮。
でも頂いてきてしまいました

その後はエジプト展へ。
ミサの余韻に浸っていたので、ちょっと現実モードに戻りがたかったですが、とってもよかったです。
さすがルーブルの所蔵品です。

それから、サンパウロのお店に行って聖像を購入。
なくてもいいんだと思いますが、何もないところに向かって祈るのは祈りにくいので。
いろいろ考えた結果、最初にとても綺麗だと思ったマリア様の像と、直感でこれ!と思った壁掛けタイプの十字架を購入。
それと、お店の方おすすめのローソク立てとローソク。
あとは一目惚れのルルドのメダイを購入して帰宅。
祝別を勧められましたが、…何だか気恥ずかしいです。
まだまだちゃんとした信者じゃないのに、いいのかな?

明日ミサに行くので、その時できたらお願いしてみようかな…(←結局お願いしてみる気の奴)。
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またもや相談

2005-06-21 10:16:59 | キリスト教(カトリック)
それで。
そんな状態の奴(←私)が教会に通ってもいいものかどうか。
悩んだので、またもや相談に行きました(今度は別の神父様のところへ。いつもの神父様は、外国の方で宣教師なので、困らせてしまうか怒られるかどちらかに思え、ちょっと逃げてしまいました。根性ないです)。

で。
復活の話をしたら、「しがらみをもって復活するわけではないから、心配しなくていいですよ」とのこと。
…そうなの??
何だかあっさり解決してしまいました。

殉教に関しては、「その時まで判らないものではないか」とのこと。

う~ん。
確かに、殉教者たちだって、最初から殉教する気でいた訳ではないだろうし…。
でも聖書やキリスト教文学の中の人たちって、殉教に憧れていたり、迫害されて、迫害される価値のある者になれたって喜んだりしてるんだよね…。
…私には遠い心境です。

まぁ、あんまり深く追求しない方がいいのかもしれません。
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永遠の命

2005-06-21 10:09:37 | キリスト教(カトリック)
カトリックを選んだのは、歴史がある、ということと、兄弟がミッション系の学校に通っていたことがあり、馴染みがあったから、ということ、何となく好きだから(!)ということが理由です。

さてさて、兄弟から聞いていた様子より、ミサはずっと平易になっておりました。
日本語だし(ラテン語でなくなっていた)、神父様は会衆の方を向いて話して下さるし、理解しやすくてよかったです。

ところが。
福音宣教、のお話で、「殉教」のところで詰まってしまいました。

キリスト教徒は、イエスを証しする人びとです。
イエスを信じると宣言しなければいけない人びとです。

日本では殉教というのは今はなさそうですが、外国は今でも、キリスト教徒ゆえの迫害があります。
それを堪え忍べるのは、「復活」の希望があるからです。

でも、「復活」したくなかったら?

はい、私はここで詰まってしまいました。
もともと、殉教なんて私にはできない、と思っていた身でもあります。
痛いの苦手です。
自分の信じるもののため、に命を賭けられるでしょうか。
自分だけならできたとしても、家族や恋人や友人の命もかかったとしたら…?
ー無理です。

それでもなおできる、というのはすごい(と同時に怖い)ことです。
キリスト教徒は決して命を粗末にしているわけではありません。
命は大事だけど、からだの命よりもっと大事なものがある、のがキリスト教徒なのだそうです。

それが、魂の命、復活。

でも、復活、したいものなんでしょうか。
私は、今の私自身を決して嫌いではありませんし、楽しく暮らしてもいますが(細かい?悩みは一杯ありますが)、復活して永遠に生きたい?と言われたらNOです。
自分自身をひきずるのは疲れます。
しがらみにも疲れます。
あの世で嫌いな人に会ったら、にっこりなんて絶対できません。

…う~ん。
これでは絶対キリスト教徒になるなんて無理だ~!!
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教会に通い始めました

2005-06-21 09:52:24 | キリスト教(カトリック)

SDの宗教設定の一件を質問しに訪れて以来、教会に通い出しました。

名前も聞かず、勧誘もせず、相談事に答えてくれた姿勢と、何となく感じる奥の深さに惹かれて(設定を見てもらった時、「大した内容ではないですね」とさらっと言われたのが痛快でした)。

以来、SDに過剰な思い入れをすることなく、ずいぶん気楽になりました。

あ、でも、まだ信者ではありません。
なれるか、と言うことになると、なれないだろう、と思っています。
教えは美しいですし、神父様もいい方です。
聖書に描かれるイエス様は好きですが、キリスト教の歴史は嫌いなのです。
宗教戦争、インディオの虐殺、侵略のさきがけ…。
信仰心のあまり、ともいえなくはないですが、それだからといって、なした事が消える訳ではありません。

でも、祈りは好きですし、神父様のお説教も好きです。
なので、しばらくは通うつもりでいます。
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SDそのものもコピーだった?

2005-06-09 17:58:41 | SD
…という話を聞きました。
ある有名な現代人形作家さんの作品(当時)を真似したのがSDだ、と。

…それで思い出しました。
その人形作家さんの作品は、私も何となく知っていました。
とても綺麗な人形ですが、私にとっては何だか怖かったので(死体を連想させる生々しさ故に、そう思ったのかもしれません)、どちらかといえば苦手でした。
SDが出た頃、その方のパクリだ、という話を聞いて、ふーん、と思った記憶がありました。
当時はSDにも、その方の人形にも興味はそれほどなかったので、そのまま忘れていましたが。

写真集はまだ入手前なので、断言はできませんが。
ネット上で探した画像と、SD初期っ子を較べると、確かに似ていると言えなくもありません。
その方の人形の、生きているような表現と、一種独特の迫力を抜いた残りがSDだ、とも言えます。
怖さをなくして、綺麗なお人形、とだけしたような(それでも、SD慣れする前は「不気味だ」「怖い」と思っていたのも確かです)。

近日中に、写真集を探して比較してみるつもりですが…。

1/6はオビツ、SDは人形作家さん、DDは当然オビツ60、幼天使・幼SDはリケ、SDCはユノア、磁石構造はDODの真似、となると、どこにオリジナリティがあるんでしょう。

「ビスクの代わりにキャストを使う」ところだけ?

…にしても。
普通、新商品が出れば類似品が出るのは普通のことです。
それが、SD界においてはそうではない。
指弾される対象です。

その流れを作ったのは、間違いなくボークスです。
他社を排除しようとして、コピーだコピーだと言いまくった(訴訟もした)。
…当のボークスがここまでコピーを作っていて、何をかいわんや、です。

…冷めますね。

追記です。
写真集を入手しました。
迫力は間違いなく作家さんの方があります(較べるのも失礼なくらいです)が、あれを一般向けにライトにしたら、SD初期っ子になります。
少なくとも、私は似ていると思います。
写真の撮り方も(現在ではなく、過去のボークスの初期っ子の箱についていた写真がです)よく似ています。

力が抜けました。
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夢から覚めたような

2005-06-02 00:02:58 | SD
あるいは洗脳から…でしょうか。

回心、というのはこういうことかも、と思うほど、簡単に割り切れたことが、昨日は不思議でならなかったのですが。
逆に、今までの方がおかしかったのかも、と、最初からもう一度考えてみました。

SDにはまったばかりのころ。
「愛娘」とか「お迎え」とか、そういう言葉が、正直薄気味悪かったのを思い出しました。
私は、ただ可愛い人形が欲しかっただけです。
「娘」がほしいわけではありませんでした。

まぁそういうのもありかな、と一抹の気味悪さを感じながらも、「ごっこ遊び」のようなものだと思っていました。
でも。
いつのまにか、言葉のマジックにかかっていたような気がします。

より家のSDを可愛くしたい、綺麗にしたい、そう言われたい…。
自分で特に意識していた訳ではないけれど、いつの間にかそんな気持ちになっていました。
綺麗なメイクをできる人は羨ましい、素敵な服を持っている、あるいは作れる人は羨ましい…。
そんな思いが重なると、SDを可愛がるのが辛くなってくる。

…そう、子供の能力を競い合う親のようです。

この場合、もとは皆同じ顔(ボークス社製の素体ですから)なので、それにいかに綺麗なメイクをするか、いい服を着せられるかにかかります。
つまり、「どれだけお金をかけられるか」が問題になる訳です。
そして、それが「愛情」と言われてしまう現状です。

そしてそうやって、感情移入してしまう存在だからこそ。
あの設定を無視できない、という流れになっていく。

そう思います。



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