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1974年西ドイツW杯2次リーグ グループA オランダ VS アルゼンチン

2005-11-11 | W杯

オランダ 4-0 アルゼンチン

得点)クライフ2、クロル、レップ

オランダ)

          レンセンブリンク              レップ
                     クライフ

              ニースケンス

                        ファンハネヘン
                     ヤンセン

        クロル                       シュルビア
              レイスベルヘン   A・ハーン


                    ヨングブルート


アルゼンチン)

               ハウスマン     ヤサルデ

                     アジャラ

            スケオ                バルブエナ

                      テルチ

          サ                         ヴォルフ
                ベルフーモ   エレディア


                     カルネバリ


<2次リーグ グループA!!>
前回に引き続き、1974年西ドイツW杯特集!! 今回はゲルゼンキルヘンのパルク・シュタディオンで行われた2次リーググループAの初戦、オランダVSアルゼンチン!!
グループAはオランダとアルゼンチンの他に、ブラジル東ドイツの計4チームで争われた。


<試合>
開始から90分間、オランダがアルゼンチンを圧倒。
前半、ファンハネヘンのループパスをオフサイドぎりぎりで抜け出したクライフが受けてキーパーをキックフェイントでかわし、無人のゴールへ流し込んで先制!! さらに攻めるオランダは、CKのこぼれ球を左SBのクロルがペナルティエリア外から豪快に蹴り込んで2点目!!
後半も完全なオランダペース。 クライフの左足クロスをヨニー・レップがダイビングヘッドで3点目を決めると、ロスタイムにはキーパーが弾いたボールをクライフが角度のないところからボレーで入れる素晴らしいシュートを放ち、オランダが快勝!!


<1974年アルゼンチン>
「オランダVSアルゼンチン」という好カードでは考えられない程、内容も結果も大差がついてしまった今回の試合。 当時のオランダが完成された強いチームだったこともあるが、原因はそれだけではない。

「アルゼンチン」と聞くとサッカー大国であることがすぐに思い浮かぶものだが、実はそれは1978年以降のことのようだ。
アルゼンチンはこの大会の4年後に自国で開かれたW杯で初優勝を果たすが、これはアルゼンチンサッカー界全体がこの大会に完全に照準を合わせて達成した快挙。 74年当時はまだ、可能性を秘めて眠っていた存在の1つに過ぎなかったというわけだ。
事実、それまでの9大会でベスト4以上に進出したのは、参加が13国しかなかった第1回ウルグアイ大会の準優勝のみで、この大会も2次リーグ敗退。わずか4年後の決勝戦に出場したメンバーでこの試合にいたのは途中出場のマリオ・ケンペスぐらいだった(アルゼンチン大会では決勝で2ゴール。通算6得点を挙げて得点王となった。)。
そのアルゼンチン大会の決勝の相手は今回対戦したオランダ。それを考えると、ここから4年間のアルゼンチンは驚異的な成長を遂げたと言える。


<1974年オランダ>
69-70シーズンにフェイエノールトがチャンピョンズカップ(CLの前身)を優勝。 その後73年までアヤックスがチャンピョンズカップ3連覇。と、まさに「オランダの時代」で迎えた今大会。
その輝かしい時代を生きたオランダの選手・監督を紹介します!!

◯監督

リヌス・ミケルス

「トータル・フットボール」の生みの親。この人無しに当時のオランダは語れない。
1971年にバルセロナの監督に就任すると、1973-74シーズンにはクラブを14シーズン振りの国内リーグ優勝に導いた。その直後、バルセロナ監督と兼任する形でオランダ代表チームの監督に就任。ワールドカップ開催直前での人事ではあったが、選抜されたメンバーはクライフやニースケンス等、ほとんどミケルスが直接指導した選手達で構成され、すでに完成されたチームとなっていた。目まぐるしいポジションチェンジと正確無比のパスワークで他を圧倒し、準優勝。
1988年にはEUROにオランダ代表を率いて出場。マルコ・ファン・バステン、ルート・フリット、フランク・ライカールト、ロナルド・クーマンといった層々たるタレントに恵まれ、見事栄冠を勝ち取った。
1992年のEUROでも再びオランダ代表を率いたが、準決勝でデンマークにPK戦で敗れベスト4に留まった。この敗戦を最後にミケルスは監督業から勇退。
「FIFAが選んだ20世紀最優秀監督」に選ばれ、今年の3月に永眠。


◯DF


アリー・ハーン

現役時代の写真が見つからない…(汗)
2004年のアジアカップの中国代表監督。 てことはアジアカップ決勝は、「ジーコVSアリー・ハーン」というW杯のレジェンド同士の豪華な対決だったわけです。


ルート・クロル

70年代、不動の左SBとして活躍。クライフが代表を引退した1977年以降は主将としてオランダ代表を支え、リベロとしても優れた能力を発揮した。


◯MF


ヨハン・ニースケンス

「もう1人のヨハン」。
クライフのような天才肌の選手ではなく、反射神経やスタミナ、スピードといった運動能力に優れた中盤の働き屋。 トータル・フットボールの華麗さはニースケンスの働きがカギだった。
W杯後にクライフの後を追うようにバルセロナに移籍。


◯FW


ヨハン・クライフ

「空飛ぶオランダ人」。オランダ史上最高のプレーヤーであり、サッカー界最高のスタープレーヤーの1人。
テクニック、スピード、得点能力、戦術眼、統率力のすべてにおいて秀で、絶大な存在感を持ってピッチに君臨した。
当時ほとんどの代表選手がアヤックスとフェイエノールトに所属する中(当時は2強でPSVはそれほど強くなかった。)珍しく「海外組」で、バルセロナに所属していた。
彼の得意技「クライフターン」(軸足の後ろにボールを通し相手を置き去りにするターン)は有名。また、この試合ではほとんどのFKを右足アウトサイドで蹴っていた。



ロブ・レンセンブリンク

オランダの名産物「ウイング」の優秀な選手たちの中でも、一際強い印象を残したのがこのレンセンブリンク。
華奢な体つきながら、高いテクニックと鋭いドリブルで切り込み、シュート、パスのセンスに溢れる左ウイング。 右のヨニー・レップとは阿吽の呼吸で効果的なポジションチェンジを繰り返した。 当時はベルギーのアンデルレヒトに所属。



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