指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『座頭市千両首』

2024年02月07日 | 映画

出入りで、心ならず殺してしまった男の墓参りに、市は上州のある村に馬で来るが、その馬子は少年姿の坪内ミキ子で、もちろん市が殺した男の恋仲だった。

                   

村では、飲めや歌えの大騒ぎ。代官が化した「千両の負荷」を納めたからで、もちろん代官は悪代官で、受けた千両を、伊達三郎らの悪漢に横取りさせ、さらに自分の屋敷に隠してしまう。

この村人の歌が、八木節なのは、実は問題であるが、後に書く。

さて、勝新太郎は、「役者バカ」なので、相手役が良いと自分も燃える。

ここでは、国定忠治に島田正吾、日光の円蔵に石黒達也と言うのが憎い。

当然、ここでは島田に「赤城の山」を演じさせて、勝新は、板割りの朝太郎を負って山を下りる。

さらに、城健三郎も出ているので、ここで島田と城の殺陣があったら最高だが、それはなくて、城は当然最後に勝と兄弟決闘をして死ぬ。

もちろん、最後は市が、悪代官を殺して千両箱を取り戻し村人に返す。

千両とは、約1億円で、こんな負荷があっただろうか。

さて、八木節だが、これは明治後期から大正時代にできたもので、江戸時代にはなかったのである。もちろん、語り物として、説教節のようなものは流布していたが、樽をリズミカルに叩いて歌って踊ると言うのは、明治後期にできたもので、作ったのは群馬の堀米源太という方で、今もその家元は堀米姓を名乗っているそうだ。

BS12

 


『クレージーの花嫁と七人の仲間』

2024年02月06日 | 映画

1962年のクレージーキャッツの映画で、松竹とは珍しい。

松竹では、ハナ肇が単独で出ている作品が沢山あるが、クレージーキャッツとして、全員が出ているのは珍しいと思う。

というのも、クレージーキャッツのアメリカ的なジャズ志向と松竹の体質は異なるように見えるからだが、この作品では違和感がなく、言ってみれば東宝的な出来になっている。

             

ハナ肇と谷啓は、東京の寿司屋の板前で、場所は明確ではないが、店の次女倍賞千恵子が出ている浅草国際劇場に出前しているので、浅草の近くのようだ。

店主で長女は高千穂ひづるで、彼女の叔父で伊豆の修善寺で旅館をやっている伴淳三郎は、何人も見合いの相手を持ってくるが、彼女は見向きもしない。実は、電源開発の社員の水原弘と恋仲なのだ。

寿司屋に来る客に芸者の淡路恵子がいて、ハナ肇や伴淳は惚れていて、一次は「灯台下暗し」かとハナ肇と淡路恵子を一緒にさせて店を継がせることを夢想する。

植木等は、ハナ肇の妹で、テレビのCMガールの葵京子と結婚していて、外車のセールスマンだが、上手く行かず会社の車を使って白タクシーをしている始末。

後楽園競輪場で、白タク営業をしているとき、旧友の犬塚弘と会い、不動産会社社長の犬塚の会社に行くと、社員で安田伸らがいる立派な会社なので、そこに入社してしまう。

伴淳は、淡路に料亭をさせたくて、犬塚持ってきた赤坂の土地の手付金として、300万円に犬塚に渡してしまう。すると、犬塚は、実は詐欺師で現金を持って逃げてしまい、淡路も、その仲間だった。

ことを恥じた植木は、ルンペンになって身を隠してしまい、ドヤに住んで、くず拾いになる。

ドヤで、そこの連中が歌う『日本無責任男』は、最高だが、腐る植木が笑える。

淡路が、伴淳のところに謝りに行くと、300万は、妻の高橋豊には内緒だったので、彼は不問に帰してくれる。この辺の役者の使い方も非常によくできている。

植木は、町で犬塚が運転している外車を見つけ、後を追って彼らのアジトに行く。

犬塚、安田の二人に植木一人なので、格闘に負けてしまうが、追って来たタクシーの運転手世志凡太の通報で警官が来て、犬塚らはご用になる。

淡路は、植木への謝罪と別れの手紙を残して青森に去って行く。

最後、植木は、伴淳の旅館に雇われて客引きをやっているところで終わり。その同僚には、桜井センリの姿も。

前半は、テレビの「スパークショー」での、渡辺晋らの演奏、藤木孝の歌、続いては赤坂のキャバレー「花馬車」でのスマイリー小原とスカイライナーズの派手な演奏と中島潤の歌など、「ショー的」映画で進行するが、次第にドラマになるのが上手いと思う。

倍賞千恵子が恋人山本豊三と話す国際劇場の屋上の遠景には「新世界」の看板。

中島潤が歌う『赤坂小唄』は、初めて聞いたがいい歌だった。

監督の番匠義彰は、大船的ではなく、東宝的であるが、映画ではなく、テレビに行ったのは、賢明なことだった。

衛星劇場

 


1963年の映画

2024年02月05日 | 映画

衛星劇場で、江利チエミ主演の『咲子さん、ちよっと』を見たが、結構よくできていて感心したが、それ以上に1962,3年ごろの日本映画と社会は、今とは比べられないほど、良い時代だったなあと思った。

                  

この1963年は、日本映画は最高だったと思う。

よく言われるに、日本映画の観客動員数は、1957年だが、内容的には1963年が最高だったと私は思うのだ。

理由は、簡単である。溝口健二は亡くなっていたが、内田吐夢、伊藤大輔は元気で、小津安二郎もまだ生きていたのたのだが、この年に亡くなるのだが。

松竹には、まだヌーベルバーグの余韻があり、日活、東宝、大映には、戦後派の新人監督もいたからだ。

もちろん、黒澤明は、正月映画に『椿三十郎』を公開している。

このように、1963年は、日本映画の頂点だったと思えるのだが。


『マハゴニー』

2024年02月04日 | 映画

この30年くらいで、一番参った映画である。

なにしろ筋もドラマもなく、特に感動的なシーンもないのだから。

監督の篠田正浩が、松竹の城戸四郎の監督試験のとき、「君は、小津安二郎について、どう思うか」と聞かれ、篠田は「1920年代の欧州に絶対映画、純粋映画があったが、僕は小津安二郎にそれを見ます」

と答えたそうだ。

絶対映画とは、映画から、小説、劇、などの余計なものを取りのぞき、映像だけで映画を成立させようとするものだった。

小津安二郎の映画は、よく見ていると、筋やドラマやテーマなどはどうでもよく、テンポよくカットが進んでいくことの快感に酔ってくる。

その意味では、篠田が言うように、「小津映画は、絶対映画」であろう。

           

だが、このブレヒトの劇『マハゴニー市の興亡』を基にしたそうだが、それはほとんど感じられず、各シーンは「どういう意味なの?」とお聞きしたいものだった。

その意味では、これは実験映画、個人映画であり、2時間40分は、ほとんど苦行だったが、席を出て行った人は4人しかいず、その一人もトイレだったのか、すぐに戻って来た。

ただ、救いはクルト・ワイルの音楽で、やはり素晴らしい。

国立映画アーカイブ

 


恵方巻を食べる

2024年02月03日 | その他

昨日、今日と恵方巻を食べる。

                   

「恵方巻なんて、コンビニの宣伝だ」との声もあり、たしかに関東に、昔は恵方巻はなかったと思う。

ただ、江戸時代から、「恵方」という考え方はあり、むしろ初詣などは、明治以後に生まれた鉄道会社の宣伝によるものなのだ。

鉄道など交通機関が発達していなかった明治中期まで、庶民は、遠くの神社等に詣でることは不可能だった。

だから、普通の庶民は、正月は、その年の恵方に行く、「恵方参り」をしていたのだ。

そして、節分に食べるのは、だいたいは散らし寿司だったと記憶している。

まあ、恵方巻は、結構おいしいので、それでよいと思って食べている。


テレビの『陽の当たる坂道』

2024年02月03日 | 図書館

石坂洋次郎の『陽の当たる坂道』は、日活で2回映画化されているが、1965年夏のTBS版も非常に良かった。

           

脚本は、山田正弘、演出は村木良彦だった。主演は、芦川いずみで、彼女が教える少女は小川知子で、非常に可愛かった。その家の長男は、横内正、二男で芦川の相手になるのは、新克利だった。

1965年夏は、日本と韓国の国交正常化が最大の政治的課題で、高校生だった私は、日韓条約阻止高校生会議の一員として活動していた。といっても、当時のことなので、勉強会、街頭デモへの参加程度で、後の過激派の暴力とはまったく別だった。

このテレビの『陽の当たる坂道』では、芦川が通う大学の先生は、福田善之で、皆がデモに参加して機動隊に殴られると言ったシーンもあった。

今、考えると当時のTBSテレビは、本当にすごかったと思う。

村木らは、後にテレビマンユニオンを作るが、そうした土壌は、完全にあったのだろうと思う。

今や、テレビのドラマは本当に無意味化したと私は思う。

現在のテレビで見るべきは、ニュースとスポーツ中継、そして映画の放映だけだと思うのだ。

 


俳優座の『三人姉妹』

2024年02月02日 | 演劇

1967年だったと思うが、俳優座が日生劇場で、チェーホフの『三人姉妹』を上演した。

当時、付き合っていた女性と見に行ったが、このときの3姉妹は、岩崎加根子、河内桃子、そして人気スターになっていた栗原小巻で、「大河ドラマに便乗した公演」と言われた。

内容はよく憶えていないが、俳優座も、この頃が一番良かったのではないかと思う。

当時、「新劇3代美女」という言い方があり、岩崎加根子、河内桃子、そして渡辺美佐子だったと思う。

            

河内桃子は、早く亡くなられてしまったが、岩崎と渡辺が、ご健在なのは、喜ばしいことである。


『新幹線大爆破』の豊かさ

2024年02月02日 | 映画

なんども見ているが、BS12で『新幹線大爆破』を見る。なんども見ているが、やはり面白く、またときどきで挿入される回想場面の抒情性がすばらしい。

              

この映画は、当初は菅原文太主演で企画されたが、文太が「新幹線が主役の映画なんかに出られるか」と断ったので、高倉健になったが、この交代は、作品の持つ抒情性からみれば大変によかったと思える。

菅原文太主演では、もっと殺伐としたドライなものになってしまっただろう。

そして、俳優の豊かさ、高倉健、宇津井健、丹波哲郎、千葉真一、永井智雄、志村喬、山内明、山本圭、郷英治と近藤宏、鈴木瑞穂、さらに元大映の伊達三郎と元日活の川地民夫など。

実に、豊かな俳優陣なのは、この1975年の頃、大映はすでに倒産し、日活が一般映画をやめたこと、そして新劇が興隆していたことが、この作品の俳優の豊かさを支えていたのだ。

皆、死んでしまっていて、ご存命なのは、小林稔侍と織田あきら、くらいだろう。

だが、見ていて一つ、問題点を見つけた。

それは、最後、床を高熱で切り取るために酸素ボンベを救援車から運び込む。

互いの非常口を開けて、そこから重い酸素ボンベを落ち込む。

こんなことができるなら、そこを使って乗客を別の車両に運べば、それで済んだのではと思うが。

ただ、時速80キロを越える速度の車両から、別の車両に移るには、トンネルのような物を作らねばならず、不可能だったか。

青山八郎の音楽もとても良いと思う。


『三姉妹』の残したもの

2024年02月01日 | テレビ

栗原小巻の回想は、大河ドラマの『三姉妹』(さんしまい)だったが、1966年にNHKで放送されたドラマは、栗原小巻の名を全国的にしたが、もう一つ残したものがあった。

           

それは、姉妹を「しまい」と呼ぶようになったことだ。

長い間、姉妹は、兄弟と同様に、きょうだいと読まれていた。

嘘だと思うなら、日本映画の名作を見ると言い。

溝口健二の『祇園の姉妹』は、「ぎおんのきょうだい」であり、小津安二郎の『宗方姉妹』は、「むねかたきょうだい」である。

1961年の川島雄三の『赤坂の姉妹』は、「あかさかのきょうだい」であり、中でチェーホフの『三人姉妹』が上演されるが、「さんにんきょうだい」と言っている。

やはり、 NHKが全国放送でやったことは大きかったのである。

もう一つ、この頃から「ウーマンリブ」の運動もあり、女性の権利が強くなったこともあると思うのだ。