指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

佐久間健治さん、死去

2024年02月16日 | 横浜

いろいろな方の訃報が伝えられるが、先日、佐久間健治さん死去の報が息子さんから葉書で来た。91歳。

              

佐久間健治さんは、日本のコンケンション事業の第一人者であり、パシフィコ横浜の営業部長として、また横浜コンベンションビューローの常務として、私が長年にわたりお世話になった方だった。

佐久間健治さんは、高校までは山形県で、上京して早稲田大学文学部に入ると共に、東京税関に勤務された。

税関では、当時の日本の国際空港である羽田空港に勤務したほか、芝浦にあった輸入映画の保税倉庫に勤務したこともあったそうだ。

羽田空港では、「滑走路で相撲を取ったりして遊んだものだ」と言っておられたが、まだのんびりした時代だったわけだ。

だが、もともと海外で仕事をしたいという意欲があったので、1964年の東京オリンピックを契機に(特)国際観光振興会が設立されると応募して合格し、アメリカに赴任された。

アメリカでは、日本紹介の16ミリフィルムと映写機を積んで全米を飛びまわったそうだ。

そして、日本に戻られると、コンベンション事業の日本の第一人者として、日本での振興にまい進され、当時、パシフィコ横浜を拠点として横浜でコンベンション事業の展開を企画されていた、横浜市都市計画局担当部長の岡本坦氏と会い、横浜に迎えられた。

佐久間さんで、偉いと思うのは、自身が日本の第一人であるのに、

「日本にコンベンションの専門家なんていません。だから何をやってもいいのです」

とわれわれをいつも励ましてくれたことだ。

ウォーマッド横浜ができたのも、この佐久間さんと、同時に岡本坦さんの度量の大きさ、なんでも許してくれる器量だったと思う。

また、パシフィコ横浜でも、コンベンションビューローでも、私は佐久間さんの下でなんども新入職員の採用試験をやったが、女性に対して聞くことはいつも同じだった。

「あなたは、結婚して子供ができても、この仕事を続けますか」だった。

実に、女性に対しても公平なフェミニストだったと思う。

多くのことを教えられた先輩のご冥福を心からお祈りする。