『欲望と言う名の電車』が、1953年に文学座で上演されたとき、二つのことがあった。一つは、ボーリングというのが分からず、「遊びにいく」に代えたこと。もう一つは、杉村春子のブランチを見て、岩田豊雄と岸田国士が「これは違う」と言ったこと。
だが、杉村はずっとこの役を演じてきたのはどう言うことなのだろうか、すごいというしかないだろう。
さて、以前、世田谷パブリックシアターで、高畑淳子がブランチを演じたとき、私は次のように書いた。
芝居で一番重要なのは、当たり前だが適役ということを改めて実感させられた劇だった。
主人公ブランチ・デュボアの高畑淳子である。
『欲望という名の電車』は、日本では杉村春子で有名だが、他にも東恵美子、水谷良重、浅丘ルリ子らも演じており、今年も秋山菜津子が、松尾スズキの演出で演じた。私が、このテネシー・ウィリアムズの戯曲を読んだのは、大学1年生の時で、早稲田の劇団自由舞台が隣の稽古場でやっているのを聞いて、文庫本を読んだ。
随分、感傷的で詩的な戯曲だなと思ったが、今度見てみて、作品の底にテネシー・ウィリアムズの、自身の同性愛への自己処罰意識があるのが分かった。南部の裕福な家に生まれたブランチは、繊細で高貴な心の持ち主で、卑俗な現実と折り合いがつかず、結婚にも破れて次第に精神を病んでいく。半ば娼婦のようになって田舎町をおいだされ、ニューオリンズの妹ステラ・神野三鈴のところにやって来る。そこは、ブランチに言わせれば、下品で、メイドもいない下層の家で、ステラの夫はポーランド人の労働者スタンレーである。文学、特に詩が興味のブランチと異なり、スタンレーの友人は、仕事の余暇は、ポーカーとボーリングしかない教養が全くない連中。この辺のアメリカの階層の差異の描き方は実に上手い。なんどもポーランド系との台詞が出てくるが、ポーランド系は、プロレスラーなども出ていて、肉体派のようだ。ただ、アメリカでポーランド移民が多いのは、北部でシカゴだそうだが。ブランチの実像は、次第に暴かれるが、まるで推理小説のように展開してゆく。一度の結婚に敗れた後、町の多くの男と付き合うが、ついには17歳の少年と関係し、父親からの抗議で高校教師もクビになる。そして、最初の結婚相手が実は、同性愛者で、自殺したことが明かされる。ここには、自らも同性愛者だったテネシー・ウィリアムズ自身の、自己への強い処罰意識があると私には思えた。最後、精神病院の医師が迎えに来て看護婦に連れられてゆく。高畑淳子は、見る前はできるかなと思ったが、大変な適役で、ブランチを演じた。
高貴な魂の持ち主で、美人だが、少々ぬけているところもあり、現実と上手く折り合えない女性を多分、杉村春子以来と思われる適役で演じた。青年座の公演では、高畑は、看護婦、ステラをやって来て、今度はブランチと主人公になったそうだ。これで、東恵美子、山岡久乃、初井言榮と3人の女優でやって来た青年座は、高畑淳子が女優のトップとなった。大曽根真のピアノは、現代音楽風で始まり、ラグ・タイム、ジャズと、舞台の役者と対位法のように張り合って演奏し、作品にぴったりだった。
今回の山本郁子のブランチは、あまり異常性はなく、普通の女性のように見え、その辺は、やはり時代なのかと思った。アメリカ社会の多様性というか、他民族、多文化社会なことをあらためて強く感じさせられた。
全体としては、非常に普通のできだが、最後、私はテネシー・ウイリアムズの孤独さに感動した。
実は、私はニューオリンズには行ったことがある。港湾局のとき、横浜港ポートセールス団約20人の事務局として、二ユーヨーク、ボルチモアの次にニューオリンズ港に行ったのだ。
ニューオリンズ港は、世界最大のバルク・カーゴ(バラもの貨物)の港で、ミシシッピー川を使って輸送してきた国内の穀物等を積み替えて外国に輸出する港なのだ。
横浜にもライクス・ラインという大手の会社の貨物船が来ているはずで、多分穀物である。
この時、ライクス社に、我々は昼食に招待されたが、完全にフランス・スペイン的な食事で、かなり美味しかった記憶がある。
そのようにニューオリンズは、フランス的な文化の町で、独特なものがあり、路面電車に乗って「デザイアー」にも行った。実際に、その名の停留場があった。別に他になにもなかったが。
聞いた話だと、作家のトルーマン・カポーティは、義母が沢山の不動産を持っていて、その一つにテネシーウイリアムズも、住んでいたのだそうだ。だからと言ってどうと言うことでもないが、大学で龍口直太郎教授から聞いたことである。
紀伊國屋サザンシアター