指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

「井上梅次も、舛田利雄も大映系を問題にしていなかった」

2023年11月27日 | 映画

昨日の『わが映画人生』を見て感じたのは、井上と舛田のお二人は、松竹系の監督、助監督は意識しておられたようだが、大映系の人は、意識されていないらしいことだった。

たしかに、巷間言われているように、日活には、松竹大船の助監督がたくさん来た。

だが、田坂具隆、古川卓巳、牛原陽一らの大映系の人も多かったのだ。

もともと、大映は、旧日活で、それが戦時中の映画法への永田雅一の便乗で大映になったのだから、製作再会した日活に元の、すなわち大映に人が来るのは当然のことだつた。

中には、森永健次郎のように、大映には行かず、戦後も東映にいて、また日活にもどって来た監督もいた。山崎徳次郎なども似た系譜だった。

               

そうした大映系の力の象徴の一つとしては、石原慎太郎の最初の『太陽の季節』の監督が古川卓巳だったことでもわかるだろう。

ただ、大映の人は、まじめでやや硬くて、戦後文学のような軽い、風俗的なものは無理で、『太陽の季節』は、筋違いな出来に終わった。

これに比べると、大船出身の中平康が監督した『狂った果実』の方が、軽薄で原作に合っていて、この方向が日活の主流になるのである。


創価学会の発祥の地は、大田区

2023年11月27日 | 政治

池田大作氏が亡くなれたが、創価学会が始まったのは、東京の大田区である。

初代会長の牧口常三郎、二代目の戸田城聖も、大田区の教員で、当時の公教育の不備に不満を持っていた人たちだった。

戦前は、尋常小学校までが義務教育、つまり公教育で、それ以後は勝手、要は裕福でないと上には行けない仕組みだった。そのために左からの教育改革運動があり、大田区でも赤化教師事件等があった。

それに対し現実的方法を目指す連中もいて、それが創価教育学会だった。

私の父親は、大田区で戦前から小学校の教師をしていたが、その父によれば、「創価学会は、テスト屋だ」ったそうだ。

彼らは、模擬試験や塾の実施、さらに参考書の販売をやって大いに儲けていた。

また、戸田は事業家でもあり、宗教以外に金融業から建設などいろいろと事業もやっていた。

だが、そうした副業は、敗戦と戦後のインフレですべてダメになる。

そこに入会してきたのが、戸田の下にいた池田大作で、彼は副業をすべて辞め、宗教活動と新聞の発行のみにして会を成長させた。

同時に、若者への浸透にも努力したが、それは政治と文化運動だった。

一般に、新興宗教は、二世、三世へと継承されることが非常に困難だとされている。

そのとき、池田は、政治活動と文化運動に、会員とその子供たちを参加させることで、信仰の継承を行ってきた。

             

私は、パシフィコ横浜にいるとき、「青年文化祭」に遭遇したが、まことにすごいもので、全部自分たちでやってしまうのだ。

音楽等の出演者が全国から来た信者であるのは当然だが、舞台装置も、各地から若い大工が来て作ってしまう。彼らは、毎日泊まり込みで、夜は客席に寝て仕事をしていく。

こんなことは、他の党派には無理だが、こうした活動は、実は二世対策なのである。

池田大作氏の死後は、どのなるのだろうかと思う。

 


篠ひろ子とは、生年月日が同じ

2023年11月27日 | その他

伊集院修が亡くなったそうだ。

            

彼の妻だった女優の篠ひろ子とは、私は生年月日が同じで、1948年3月8日なのだ。

横浜市役所には、もう一人新井貴君がいたが、あまり愉快ではないので、書かない。


『わが映画監督人生・井上梅次』

2023年11月27日 | 映画

「月丘夢路・井上梅次100年祭」の最後、新東宝、日活時代の助監督だった舛田利雄によるインタビュー。

1999年で、大監督の舛田が、井上の前では小さくなっているのが不思議。

戦後、学徒動員から大学に戻った井上は、高校の同級生内川清一郎からの話で、新東宝発足時の石田民三監督の『縁は異なもの』の助監督についたことから、新東宝の助監督になり、その働きぶりが大きく評価され、4年後に監督昇進を言われる。

だが、阿部豊、渡辺邦男、斎藤寅治郎の三大監督からクレームがつき、昇進が見送られる。

もちろん、監督が言ったのではなく、その助監督連中が反対したのだ。戦中も、黒澤明以外昇進した者はいなかったので、当然だが、仕方なく、宝塚映画で監督になり、その後新東宝で音楽映画等を撮った後、製作再開をした日活に移籍する。

舛田利雄の方が先に日活にいて、ある宴会で、舛田は、松竹出身の助監督連中から、

「井上って、どんな奴だ」と聞かれたそうだ。

日活では、浅丘ルリ子の『緑はるかに』をはじめ、石原裕次郎の『鷲と鷹』、『勝利者』、『嵐を呼ぶ男』などの大ヒットを飛ばす。

だが、1958年日活を離れる。その理由を舛田が聞くと井上は、はっきり答えた。

「完全に引き抜きです」

大映の川口松太郎、松竹の大谷、東映の坪井と言ったプロデューサーから話があったとのことで、あっさり日活を辞めて、各社で仕事をするが、ここでも最初が宝塚映画だったというのが面白い。

当時は、5社協定があったので、5社間で移籍することは難しかったのだ。

さらに、日活が次第に無国籍映画になり、銃で撃ち合う映画になったことも不満で、「私は1本もやっていない」とのこと。

娯楽性と芸術性が一緒になっていなくてはならないそうだ。

自慢話だが、そう不愉快ではなのは、人間性だろうか。

それにしても、最初の監督が、石田民三だったというのは、興味深い。

            

この人は、今は忘れられた監督だが、東宝京都にいて、森本薫脚本の、全員女優の『花ちりぬ』などの秀作を作っている。市川崑も、石田についていた人である。

国立映画アーカイブ