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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

思い出の言葉 ”Another Day, Another Dollar”

2023-07-11 23:01:41 | こころ

すっかり忘れていた言葉、”Another Day, Another Dollar” を数日前ふと思い出した。40年以上も前、私が家族を連れてカナダの大学にポストドクターの職についていたとき、大学のだだっぴろい駐車場でカナダの友人から聞いた言葉である。風景は映画のシーンのようにリアルに思い出されるが、どのような文脈で出たか思い出せない。当時、その言葉を「あしたはあしたの風が吹く」「なんとかなるさ」と私はなんとなく理解した。

ポストドクターは任期付きの研究職である。不安定な身分である。そのとき、きっと私が不安な顔をしていたので、元気を出させようとして、友人が言ったのではないか、と思う。

いまや、インタネットで何でも検索できる時代である。改めて、この言葉を調べてみると、パナマ運河を掘る労働者の賃金が1日1ドルであったことに起因する。1962年にWynn Stewartが作ったカントリーソングがこの言葉を北米に広げた。

Wiktionaryでは、”Another Day, Another Dollar”を諦めのつぶやきかのように、解釈している。

1.Everything is routine and mundane, and nothing eventful or extraordinary has happened.

2.Life goes on, and it is necessary to work in order to earn money.

私はちょっと違うじゃないのと思ってしまう。この40年間に世界が変わったのではないか、とも思ってしまう。

40年前は、ヒッピーは若者の理想の生き方であった。私も「フーテン」を理想の生き方と思っていた。松竹映画『男はつらいよ』はフーテンの寅さんをどうしようもない社会のはみだし者の憎めない男と描いているが、当時の若者にとっては、お金に囚われた立身出世の生き方を捨てることこそ、理想だったのであり、「フーテン」と見なされることは誇りだったのである。

”Another Day, Another Dollar”という言葉をふと思い出した理由が今わかった。この金曜日に私の勤めた外資系会社の退職した技術系社員の集まりが4年ぶりにあった。私の向かいの席の男が株で儲た話ばかりすると、私の横にいた友人が腹を立てたことが引き金だったのだ。横の友人は、70歳をすぎているのに、いまだに、デジタルで記録された音源から自然な音を再現する回路づくりに熱中している。技術の人は、自分の技を究めることに誇りをもつべきであって、お金を儲けたことの自慢に終始すべきでないと、友人は考えているのだ。

”Another Day, Another Dollar”は、1日1ドルの稼ぎであったとしても、人生には喜びと誇りがあるという意味なのだ。1日1ドルしか稼げないという嘆きの言葉でない。


「趣味は?」と聞かれても、父と母の場合は

2023-07-05 00:05:57 | 思い出

数日前、朝日新聞の《耕論》に『「趣味は」と聞かれても』というテーマで3人のインタビューが載っていた。オピニオン&フォーラムで取り上げるような話題のように思えないが、無趣味だと体裁が悪いと思う人が増えたのか、それとも、生きていく意味がないと感じる人が増えたのであろうか。どうも、新聞がこのテーマを企画したのは、無趣味でいいのだというメッセージをみんなに伝えたかったのではないだろうか。

私の母は、生活に余裕ができたとき、私の父に趣味を持てとよく言っていた。子どもの私としては母の意図がわからなかった。今でも、母がどうしてそんなことを父に言っていたのか、謎である。

父は兄の作ったラジオで落語や講談を聴いていた。子どもの私は父のそばで一緒にそれを聞いていた。聞こえてくる話はじつに面白かった。落語や講談を聴くことは立派な趣味だと思う。

父は探偵小説を読むのが好きであった。また、芥川龍之介を大作家だと思っていて、出版があると、買ってきて読んでいた。それも立派な趣味ではないか。

父は映画を見に行くのが好きであった。チャンバラでも西部劇でもなんでも良かったようである。それも立派な趣味ではないか。

母が趣味と考えるものは、落語や講談を聴くことでも、小説を読むことでも、映画を見ることでもなかった。母自体の趣味は手仕事である。絵を描いたり縫物をしたりすることである。

母が父に勧めていたのはコレクションである。砂浜で貝殻を集めること、川で石を集めること、切手を買い集めること、古銭を集めることなどである。こんなに珍しいものを集めたと自慢できることが、趣味を持つということらしい。

母の勧める趣味はなんとなく田舎臭い感じがする。旦那衆の趣味である。

父は東京育ちだから、そういう趣味を持ちたいという気持ちがなかったと思う。しかし、父は母に従ってコレクションを始めた。

母はなぜ父にコレクションを勧めたのだろうか。ひとつは父が老人性ウツになるのが怖かったからではないのか。また、東京育ちの父を理解できなかったからではないのか。また、女道楽を始めるのを防ぐためだったのではないか。

母はブスであった。父は美男子だった。母が父を手元において置くために、父をリードして自分の方が優越していると思わせたかったのではとも思う。

私は別に趣味はいらないと思う。私にはやりたいことはいっぱいあるし、齢をとるとのろまになるので、時間がいつも足りない。もちろん、何か成し遂げねばとも思わないので、このまま、いそがしい、いそがしいと言いながら、死ぬのだと思う。死を迎えてだいじなのは、みぢかにいる人をいつも大切にすることぐらいである。


生成AIを過大評価している大人たち、生成AIの使用禁止

2023-07-02 21:27:57 | 教育を考える

けさの朝日新聞に『作文コンクール 生成AIは禁止』という記事がのった。

私も禁止するのが当たり前だと思う。自分の力で書くことは考えることに深みを与える。考えることが単なる試行錯誤にとどまらず、自分の考えに整合性がとれているのか、体系化できないか、普遍化できないか、という論理的思考へと、書くことによって導かれる。

ただ、生成AIをみんな過大評価しているのではないか、と思う。生成AIの原理は、文を文法にしたがって生成するのではなく、大量の蓄積した文章のデータを学習し、統計的にもっとも確率の高い順に言葉をつなげるだけである。そこには知性がない。

この朝日新聞の記事によれば〈(全国学校図書館)協議会の設楽敬一理事長は応募要領の文面を検討する過程で、チャットGPTで感想文を3回作成してみたが、「いずれも平坦な文章で、賞を取れるような内容ではなかった」〉という。それはそうだろう。

私も同じ経験をしている。その話をしよう。

N高(角川の経営する通信制高校)に通う男の子の数学学習を私はNPOで支援している。彼は、数学が好きでもないのに、オンライン授業を真面目に聞いて、適宜、教科書を参照しながら練習問題を解いて、答えをネットで提出する。彼が最後に苦しむのは、学習の単元ごとに、学習で何に興味をもったか、何が面白かったか、の360字以上のレポートの提出である。

レポートを作成する本人はもともと数学が嫌いの上、オンラインの講義ははっきりと言ってつまらない。講師だって、撮影者以外の誰も見ていない中で講義するのだから盛り上がらない。淡々と教材を進むしかない。

それで、私は彼に、レポート作成にチャットGPIを使うよう提案した。彼は、何度も何度も入力文を変えながら、使える応答文を模索した。結局、「使えねーな」ということになった。私ものぞいてみていたが、チャットGPIの答えは、あまりにも陳腐で、数学を理解していず、整合性もない。

朝日新聞の記事で、博報道教育財団も神戸親和大も作文コンクールに使用を確実に見抜く方策は用意できていないと言うが、生成AIを使ったかどうかでなく、個性や独創性のない陳腐な作文に賞を与えなければ良いだけである。生成AI は平均的にもっともありそうな文を生成するだけで、生きている子どものもつ悩み、不安、焦り、怒り、希望、喜び、情熱などを反映できない。平均には個性がないのだ。


広島平和公園とパールハーバー記念公園との姉妹協定の闇

2023-07-01 00:16:41 | 戦争を考える

きのう(6月29日)、広島市の平和公園とアメリカのパールハーバー国立記念公園が「姉妹公園協定」を結んだことをテレビで知った。

公園は人間ではないから「協定」を結ぶことはできない。この主語は人間であるべきだ。正しくは、東京のアメリカ大使館で、きのう、ラーム・エマニュエル駐日米国大使と松井一實広島市長が姉妹公園協定書に署名したということだ。エマニュエルはアメリカ政府を代表し、松井は広島市の地方政府を代表しているわけだ。

ここでも、日本語は不正確で、松井は「市」を代表しているのではなく、「地方政府」を代表しているのである。広島市議会でこの協定が承認されたとはまだ聞いていない。

この協定が結ばれるに至った背景を、NHKは6月22日にホームページでつぎのように書いている。

〈ことし4月、アメリカ側から広島市に対し、G7広島サミットをきっかけに協定を結びたいという打診があり、広島市は5月のG7サミットで出された核軍縮に関する声明「広島ビジョン」の実現に向けた機運の醸成につながるとして、受け入れることを決めました。〉

アメリカ側とは「アメリカ政府」である。アメリカ政府と広島市の地方政府とが協議するなんて、格が違うから不自然である。アメリカ政府が日本政府に「姉妹公園協定」を結ぶように働きかけたということであろう。日本政府が広島市の地方政府に協定を結ぶように迫ったのだろう。松井市長が協定を結ぶことにためらいがあったから、調印までに時間がかかり、調印式がきのうになったのであろう。

何か不愉快なものを私は感じる。

きょうの時事ドットコムニュースをみると次のようにある。

〈松井氏は両公園について「戦争の始まりと終わりを象徴する場所だ」と指摘した上で「平和を願う両国民の思いは同じだ」と述べた。エマニュエル氏は「かつて対立の場であった両公園は、今では和解の場となった」と強調した。〉

エマニュエルは、この協定は日本とアメリカとの「和解」の象徴であると言っている。ところが、松井は「平和の願い」の象徴と言っている。ずれがある。

広島平和記念公園は、戦争反対の象徴なのだ。核兵器だけを使わなければ戦争をしていいと言っているわけではない。核兵器を使わなくても戦争は殺し合いであり、悲惨なのだ。

中沢啓治の『はだしのゲン』は、原爆だけでなく、戦争中に日本で言論の弾圧があり、戦争反対をいうと暴力を受けたこと、戦後は被爆をしたということで同じ日本人から差別といじめを受けたことを描いている。

アメリカ政府の意図は何だろう。

バイデン大統領が広島平和記念資料館を訪れたのは、アメリカと日本の80年前の戦争の「和解」を演出するためであって、日本政府に無条件降伏を受け入れさせるために1945年に広島と長崎にアメリカ政府が核兵器を使用したという立場を変えていないとアメリカ国民に言いたいがためである。

私が感じた不愉快なものをここにあるのだ。岸田文雄はアメリカ政府と共に、広島の原爆ドームや記念資料館のもつ意味合いを変えて、軍事予算を倍増させ、軍備拡張競争に踏み込んでいる。人をバカにしている。不愉快を通り越して怒りを感じる。