新型コロナの感染が広がって1年以上がたっている。この間に緊急事態宣言の発出が3回あった。「発出」という言葉に、はじめは強い違和感を感じたが、慣れっこになってきている。
その中で、きのうのNHKの時事公論のテーマは『コロナ禍の憲法』であった。緊急事態に私権を制限できるか、という問題提起であった。
私は、そうではなく、緊急事態に政府に権限を集中して良いのかという問題として考えるべきだ、と思う。私は、政府を国民へのサービス機関として考え、国民に主権があると考える。緊急事態といえど、政府が国民の同意にもとづかずに命令するのはオカシイと思う。
「私権」というとき、「私有財産制」を前提しており、損した得したという感情を肯定している。損した得したという感情は、近代に生まれたものであり、中世の平等理念を否定し、人のものを奪っての金儲けを肯定するものである。
したがって、「私権」より「平等」を尊重する人にとって、コロナ禍で、生活に困った人を助けることに賛成するが、これまではこんなに儲かっていたのに、どうしてくれるのか、と言われも共感できない。
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憲法第22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
○2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
憲法第29条 財産権は、これを侵してはならない。
○2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
○3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
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新型コロナ禍で、緊急事態宣言禍で「営業の自由や財産権」が問題となったというが、日本国憲法は「営業の自由」を別にうたっていない。「職業選択の自由」である。日本は資本主義国だから、「金儲けの自由」があり、だから、「営業の自由」があるという誤解が背景にあると私は思う。
「補償」とは、あくまで、新型コロナ禍での生活困窮をみんなで助けるものと考えるべきである。
J・K・ガルブレイスは『ゆたかな社会 決定版』(岩波現代文庫)に「第8章 経済的保障(Economic Security)」という章をもうけている。この中で、資本主義社会は競争社会だから人びとはいつも不安におとしいれられていると書いている。金持ちも貧乏人もその点では同じである。ところが、金持ちは、安心感を得るために財力を使って不確実性から自分を守る仕組みを作る。ところが、貧乏人は団結しか、安心を得られる手段がない。その結果、金持ちはますます金持ちに、貧乏人は貧乏になる。
「補償」は、緊急事態宣言がなければ、こんなに儲かっていたのに、という仮定にもとづいの支払いである。これはおかしい。憲法29条の3項「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」の適用だと、私は思わない。未来の営業収入はあくまで新型コロナで不確定になったのであって、みんなで助け合うという意味の「経済的保障」と考えるべきである。
日本国憲法は「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」とのべる。
「その権力は国民の代表者がこれを行使」というのは、エイブラハム・リンカーンの「人民の人民による人民のための政治(government of the people, by the people, for the people)より、ちょっと腰が引けている。
が、私はこれを民主主義国の宣言として考え、緊急事態宣言下の政府への権力集中に反対する。政府が人民のサービス機関として信頼されていれば、みんな政府のいうことを信用して、込み合う通勤電車に乗らないし、飲み屋に行かないであろうし、ゴールデンウイークだからといって遊びに出かけないと思う。政府も、信頼されていれば、飲みに出かけるな、遊びにいくな、外ではマスクをしろ、率直に言うことができる。
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