きのうの朝日新聞の石川健治のインタビュー記事が相変わらずよくわからないので、読み返している。たぶん、いろいろな知識を前提にしていて、そんなことあたりまえであるとして省略しているのであろう。
私が高校生のとき、なぜ、法学部に進学する人がいるか、理解できなかった。法というものは、支配者が作ったもので、自分にとっては檻のようなものにしか、思えなかった。こんなもの、大学に入ってまでして研究したいとは思わなかった。私は数学か物理を研究するために大学に入った。
高校の後輩をみていると、真面目な子が、法学部に進学している。それで、法律も弱者のために戦う道具になる側面があるのか、と多少見直す気になった。イギリスの植民地インドで非暴力闘争を唱えたガンジーが、弁護士の資格をとって、弱者のために戦ったと知って、法律の知識も役に立つのだと思いなおした。
石川健治が仮定している「立憲主義」がよくわからない。
日本版ウィキペディアによれば、「立憲主義とは、単に憲法に基づいて統治がなされるべきであるというのみならず、政治権力が憲法によって実質的に制限されなければならないという政治理念である」とある。
「立憲主義」とは、「憲法」というものの現実を見ているのだろうか。
「法」とは、その時代の権力闘争において、妥協の結果でてきた明文化された約束である。妥協であるから、力関係が変われば、法の解釈を変えたり、あるいは、法そのものを破棄したりする。妥協の結果であるから、法を盾に、弱者を守る余地がある。
「憲法改正」の声が上がるのは、力関係が変わったからか、力関係を変えたいからと、私は考える。自民党は、力関係を変えたいから「憲法改正」を唱えるのであろう。維新の会は、力関係が変わったと思うからそれにあった「憲法」に改正したいのであろう。国民民主党は、力関係が変わったのだから、強いものについて行きたいのだろう。
「憲法改正」の声があがるのは、世界情勢が変わったからではない。
法をめぐる争いは、強いものが弱い者を支配する社会にするか、強いものも弱い者も平等な社会にするか、の争いであると私は思う。
宇野重規の定義では、強いものも弱い者も平等な社会が、デモクラシーである。
「政治権力が憲法によって実質的に制限されなければならないという政治理念である」というとき、憲法が政治権力を制限する理念や手段が具体的に明文化されていなければならない。妥協であるから、実際の憲法では、そういう個所は多くない。曖昧に書かれて、解釈で運用がどうにでもなる。
また、妥協の結果できた日本国憲法には、「世襲制の天皇」がある。これは、憲法の論理的整合性を壊している。日本がアメリカに占領されたときに、アメリカの円滑な日本支配のために導入された制度である。日本がアメリカへの従属を断ち切るためにも、天皇制を廃止することが かなめである。
また、立憲主義の「政治権力を憲法で制限する」が実行するには、大衆が正義に関心を持ち、政治に参加するようにならないといけない。強いものをますます強くする保守に対抗するには、守りの第9条ではなく、力関係を変えるという攻めの立場をとらないといけない。
現代社会では、私だけでなく、ほとんどの人は知識人の言うことを信用しない。理屈をどうこねるかではなく、弱い者の立場が守られるために、何が良くないか、どうすれば良いかを、もっと単調直入に議論すべきである。
選挙の投票率が50%をきる現状は異常である。国民の30%の支持しかない政権与党が国会の半分を大きく上回る議席を占めるのは異常である。
ウクライナ軍事侵攻を見て、軍事同盟は何の役にもたたない、核兵器は抑止力にならないということが明らかになっている。にもかかわらず、核の傘とか抑止能力とか、バカげたことを、自民党や維新の会や国民民主党は言っている。
ウクライナはロシアの基地を攻撃していない。軍事侵攻に抵抗しているだけである。そして、ロシア軍の侵攻の不当性を訴えている。抵抗を継続できることには、技術的な側面もあろうが、第1にはウクライナ国民に抵抗の意思があるからである。
日本はなさけない。占領したアメリカ軍の横暴にほとんど抵抗して来なかった。数少ない抵抗する人びとを見捨ててきた。そして、アメリカ軍を素晴らしいもののように語る軍事評論家が恥ずかしげもなく、今も、メディアに出てくる。
戦争はゲームでない。人が死ぬのだ。
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