猫じじいのブログ

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菅義偉は なぜ加藤陽子の日本学術会議会員任命を拒否したのか

2020-11-14 23:02:26 | 日本学術会議任命拒否事件

菅義偉が、日本学術会議会員任命拒否した6名のうち、菅自身が知っていたのは加藤陽子だけである、との答弁を聞き、なぜだろうか、ずっと気になっていた。

いま、少しわかってきたことがある。加藤陽子は、安倍晋三から嫌われてきた「自虐史観」にたつ現代日本史の学者である。官邸は、政府の具体的法案に反対したかどうかだけでなく、どういう歴史観にたって学術研究し、教育しているかを問題にしたと思われる。

もし、そうなら、思想の自由、学問の自由という日本国憲法の掟を菅義偉は破ったことになる。

日本語ウィキペディアの「加藤陽子」の欄を見ていると、つぎの記述があった。

〈東大での指導教授だった伊藤隆は、加藤の研究を高く評価しつつも、加藤が後に「新左翼」へと回帰したと述べている(2017年)。〉

ここの「新左翼」とは、日本共産党以外の左翼思想のことを漠とさす、ののしり言葉と思われる。
伊藤隆は育鵬社の歴史教科書にたずさわった人で、同じく、レッテル貼りして言えば、「左翼の歴史家と論争してきた」右翼歴史学者となる。

「加藤の研究を高く評価」だから、日本学術会議が加藤を新会員に推薦しても何もおかしくない。

ウィキペディアの記述は続く。

〈加藤は1999年頃から山川出版社の教科書『詳説日本史』の執筆に関わっているが、この教科書は加藤自身にとっては満足のいく出来ではなかった。このときの経験をもとに、歴史研究の「凄み」を高校生に示したいという内容の「私が書きたい『理想の教科書』」という論考を2002年の『中央公論』に発表している。この論考を読んだ編集者の声掛けをきっかけに、のちに『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』が執筆されることとなった。〉

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社、2009年)は、第9回小林秀雄賞を受賞している。同書の南京事件の記述にたいして、「右翼」の学者の反応はつぎのようなものだったという。

〈上杉千年は「理科の教科書に〈月に兎がいるという説がある〉と書くに似ている」と非難し、秦郁彦も加藤について「左翼歴史家のあかしともいうべき自虐的記述は、正誤にかかわらず死守する姿勢が読み取れる。つける薬はないというのが私の率直な見立てである」と非難している。〉

どうも、この事件で、加藤陽子を、「右翼」学者たちが、自分たちと同じ保守系歴史学者と思っていたから、裏切られたという思いがあって、「新左翼へと回帰した」と ののしったのではないか、と思う。

ところで、加藤陽子は「左翼」の歴史家ではないのではないようだ。左翼の歴史家の多くは、民衆は何を思って、どう行動したのかに着目して、歴史を眺める。加藤は、政府や軍部に関わったものが残した文書にもとづき、関係者がどのような意図をもって、歴史に関わり、歴史が動いたかを実証的に分析する。だから、伊藤は「加藤の研究を高く評価」したのだろう。

いま、そのことを確認すべく、私は、『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』(朝日出版社、2016年)を読んでいる。高校生向けに書かれたので、言葉は平易だが、扱っている内容はむずかしい。

だから、「叩き上げ」の菅義偉が、加藤陽子の本を読めるとは、私は思わない。日本会議のメンバーか安倍晋三が、加藤陽子を「自虐史観」を高校生に広めていると、菅に言ったのが真相と思われる。

[補遺]
日本語ウィキペディアから、
〈東大での指導教授だった伊藤隆は、加藤の研究を高く評価しつつも、加藤が後に「新左翼」へと回帰したと述べている〉
の記述がなくなったことに、11月19日、気づいた。この伊藤隆の言葉を検証したいと思っているが、手掛かりがない。いま、伊藤隆の『歴史と私』(中公新書)を読んでいるが、山川出版社の『日本歴史体系』で加藤陽子に執筆を分担してもらったという記述があるだけで、加藤陽子をほめもしないし、けなしてもいない。


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