猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

言葉のない子どもたちのための絵本が欲しい

2019-04-29 22:18:11 | 童話


ほとんどの絵本は大人のために作られている。それは、絵本を買うのが大人であるからだ。絵本は、12月か1月にしか、売れない。そのとき、大人は、自分の思い込みで、本を選び、子どもにプレゼントする。

私は、言葉のない子どもたちのために、良い絵本が欲しいと思っている。言葉が遅れていても、目からはいってくるものに、反応する子がいるからだ。

私のところの子どもたちは、世界の名作童話や日本の昔話を読みたいと思っていない。王子様、お姫様なんて意味がわからない。
町の子どもたちなので、オタマジャクシやカエルを見たことがない。フクロウや子豚が出て来ても何がなんだかわからない。
新幹線や飛行機にのったことのない子どもたちもいる。

そのような子どもが興味をもつのは、電気掃除機や冷蔵庫やお鍋やお皿やご飯だ。いつもの部屋で何かが起きる、そんな絵本が欲しい。短いできごとの集まりで良い。

ごちそうやお菓子の作り方でもよい。掃除の仕方でもよい。コップの洗い方でもよい。

先日、リンゴが食べられる、というだけの、リンゴだけの絵を見せたら、言葉がでてこない子が、とてもよろこんだ。

親は物の名をやたらと幼い子どもに教える。私のところの話せない子どもたちにそんなものは必要ない。少ない語彙で良いのだ。言葉と言葉がつながって意味をなすことが大事なのだ。言葉と言葉のつながりが繰り返し、話しことばの響きの面白さが伝わることが大事なのだ。そして、怒り以外の、何かを感じる心を育てるのが大事なのだ。

本当は、親が掃除しながら、あるいは、料理しながら、子どもたちにお話をしてあげられるなら、それが一番良い。言葉がでてこない子を持った親は、いつの間にか、子どもとの会話をあきらめてしまう。

良い絵本は、失われた親子の会話を取り戻してくれる、私はそう思っている。

宮沢賢治への旅『どんぐりと山猫』

2019-03-03 14:02:00 | 童話

3年前、プレミアムカフェ「宮沢賢治への旅」番組で、童話『どんぐりと山猫』の1節が気になった。
『どんぐりと山猫』は一郎が山猫の裁判に招かれるという童話である。どんぐりたちは誰が一番偉いかを争っていて、山猫はその裁判官である。
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一郎は「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」と山猫に助けをだす。
山猫は「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」とどんぐりたちに言う。
それで、どんぐりたちの争いはしずかになり、それから、一郎は山猫に招かれることは2度となかった。
 ―――
誰が一番偉いかという話は昔からある。新約聖書の福音書やパウロの書簡にも似た話しがいくつもある。しかし、どの話も「一番偉いのはみんなにゆずって尽くすひと」である。例えば、マルコ福音書9章33~35節がそうである。

ところが、一郎の答えは、ちょっと変わっていて、どんぐりたちがそれぞれ自分が偉いと思っている価値基準の反対を並べているだけである。そこに倫理性はない。常識の反対を言っているだけだ。昔の漫画の『天才バカボン』で「バカは天才なのだ」と言っていたのと同じである。
山猫の申し渡しは一郎の提案ではなく、「いちばんえらくなくて…ようなやつが、いちばんえらいのだ」と変わる。「天才でないやつが天才なのだ」という論理である。なぜ、宮沢賢治は山猫にこう変えさせたのかも、私にはわからない。

さらに、一郎は「ぼくお説教できいたんです」というのが奇妙だ。出版のときの1924年では、「お説教」はプロテスタント系教会の牧師のスピーチを意味する。仏教では「説法」または「法話」が使われる。仏教徒や僧侶は、「仏教」と言わず、「仏法」という。「教」という語は明治時代に儒学の教養のある人が使っていた言葉で「人間の教え」というニュアンスがある。仏教徒や僧侶は「真理について語っている」との自負から「法」を使う。「法」は「法則」の「法」で、「法律」の「法」ではない。

宮沢賢治は、本当に教会の「お説教」を聞いたことがあるのだろうか。あこがれから「お説教できいた」という言葉が出てきたのだろうか。

『どんぐりと山猫』は、東北の美しい自然を背景にしたメルヘンであるが、メッセージ性があるのかないのか、私にはわからない。宮沢賢治は、西洋へのあこがれを東北の自然の中に投影し、オリジナリティの高いメルヘンを作り出したのだろう。
とにかく、この夏には東北のなかの西洋の地、北上川を訪れたい、と私は思っている。