猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

老夫婦の静かな、しかし、至福の時間、ハンス・アンデルセン

2020-03-15 21:49:14 | 童話

ハンス・アンデルセンの童話に、老夫婦が屋根裏部屋から半分眠りながら手をつなぎ外の陽の光を見る物語がある。岩波文庫の『完訳アンデルセン童話集 2』で読んだかと思う。ふつうの物語に期待される展開はない。静かに時間が流れるだけである。

アンデルセンは結婚しなかった。あるいは結婚できなかったのかもしれない。しかし、老年の優しさと思いやりの混じった二人の時間にあこがれていたのではないか。そして、すべての苦労を忘れ、若いときの二人のいちずの愛をともに思い出すと考えたかったのだろう。

アンデルセンは、最近、よく「発達障害」とか「自閉症」とか言われる。これを、そのまま、受け取っていいのかと私は思う。

アンデルセンは、デンマークの地方都市の病気がちな貧しい靴職人の息子で、11歳で父を亡くしている。19世紀の裕福な市民中心の世界で認められるのに、とても苦労したと思う。彼の童話のほとんどは、人は貧しく生まれ、報われもせず、貧しく死んでいくことを描いている。神は貧しいものを見捨てる。貧しきものはあきらめて運命にしたがわなければ、神は罰する。死だけが人 皆に平等なのだ。

現在であれば、そんな社会を告発できるのに。

この童話、貧しい老夫婦に静かな至福の時間が訪れるとは、アンデルセンのささやかな願いだったのだ。

宮澤賢治論の補遺:池澤夏樹の『言葉の流星群』

2019-08-06 16:09:19 | 童話

池澤夏樹は、『言葉の流星群』(角川文庫)のなかで、宮澤賢治のことをモダニストと書いた。

西欧にあこがれる「ロマンチスト」より「モダニスト」が宮澤賢治にぴったりと私も思う。この「モダニスト」は「新しいもの好き」という軽い意味だから、田舎に暮らし「モダニスト」であることは、何も不思議ではない。

いっぽう、神経科学者のエリック・カンデラは、「モダニズム」を啓蒙思想への反動と、『芸術・無意識・脳』(九夏社)のなかで言う。「啓蒙思想」もよくわからない語だから、「モダニズム」はもっとわからない。「啓蒙思想」は英語の “enlightenment”の訳である。光をあてて見えにくかったものを見えるようにすることだ。文字通り受け取るのが良いと思う。

ソビエト連邦の最初にして最後の大統領ミハイル・ゴルバチョフが、行った政治改革策の柱が、情報公開(グラスノスチ)である。これはまさに、啓蒙である。

啓蒙の反対は蒙昧(obscurantism)で、それは、意図的にあいまいなことを言ったりして、問題の本質を隠すことをいう。愚民化策とも訳される。

啓蒙思想のミハイル・ゴルバチョフは、1991年に、ボリス・エリツィンのクーデターに負け、ソビエト連邦が崩壊する。エリツィンは、自分の闇の部分を覆い隠すために、ウラジーミル・プーチンを自分の後継者に選んだと言われている。

残念ながら、人間は、善意の「啓蒙」より、悪意の「蒙昧」を望むようである。

「モダニズム」が「啓蒙思想の反動」だというのは、人間に生まれつきの理性があるわけでなく、非合理的な行動にもでるという人間理解のことだ。カンデラは大脳皮質の機能よりも扁桃体、線条体の機能を強調しているわけだ。フリードリヒ・ニーチェも『道徳の系譜』で、自分の欲望を抑え込むことは自己に残酷だと言っている。

私は、人間が理性的でなくとも、それでも“enlightenment”をだいじだと思う。

だから宮澤賢治が軽い意味のほうでの「モダニスト」で充分である。

池澤夏樹は、宮澤賢治が必ずしも禁欲的でないと言う。宮澤賢治が「性」を直接扱った作品が2つあると言う。『泉ある家』と『十六日』である。「性」は情動のだいじな要素で、それによって、個人と個人とが結びついているとも私は思う。

物語は『十六日』のほうが性に対して肯定的であり、私は富島健夫の作品を思い浮かべた。

宮澤賢治は、童話のなかでも、「自己犠牲」より「性の喜び」を強調してよかったのではないか。人間にとって情動が避けられないものなら、争ったり、残酷になったりしないように、そして、人間同士が喜びをもって結びつくように、情動を利用していけばよい。

ラッセルは、『西洋哲学史』(みすず書房)のなかで、「自己犠牲」について次のように語っている。

「全体として見れば、みずからの起源をロックに負い、啓蒙された私利追求を説いた学派の方が、英雄主義と自己犠牲の名においてそれを軽べつした学派よりも、人間の幸福を増大させるにより大きい貢献をし、人間の悲惨を増大させることにはより少ししか役割を演じない。」

ここで「啓蒙された私利追求」は“enlightened self-interest”の訳である。

池澤夏樹の次のことばには、私は違和感をもつ。

「自由にはしかしいつも責任がついてまわる。田舎の共同体の中では一人の失敗は速やかに全体によって補われるが、都会の失敗者には誰にも手を貸してくれない。個人は個人として突き放される。」

「自由と責任」は、文部科学省の道徳教育『学習指導要領解説』に出てくるキーワードで、「自由」を束縛するものとして「責任」が置かれる。

池澤夏樹のことばは、自分の意志で選択した結果は、他人のせいではないから、どんなに悲惨な結果でも、我慢しろ、につながる。私が思うに、「自由」を求める情動は、人類が生き延びるために、新しいことに挑戦するように、すべての個人に植え付けられた特性である。失敗した挑戦者を暖かく助けるのが、人間社会の当然の知恵だと思う。

「共同体」は“community”の訳である。コミュニティは、田舎でも都会でも必要なものである。旧約聖書の新共同訳は、以前、「会衆」と訳していた“עדת”(エダー)を「共同体」と訳したが、とても良いと思う。池澤の「コミュニテイが都会にない」は、言いすぎであろう。個人とコミュニティは両立するものである。そして、コミュニティは自分で作ることができるものである。

宮澤賢治論:池澤夏樹の『言葉の流星群』

2019-08-02 22:47:39 | 童話

妻が買ってきた池澤夏樹の『言葉の流星群』(角川文庫)が面白い。宮澤賢治のことばのマジカルな力を改めて教えられた。と同時に、自分が気づいていない池澤の側面をも、見たような気がする。

読むのは、本書の終わりに近い「宮澤賢治の言葉」から始めると良い。本書の前半は硬質で思想的なものに立ち入っているので、読みづらいかもしれない。

ここで、池澤は、自分が「北海道の帯広という田舎町の生まれ」と言う。そして、宮澤賢治が「花巻という実に微妙な場所」に生まれ育ったのが良かったと言う。だから、東京も田舎も見えると言う。

宮澤賢治は、生きている間は少しも評価されなかったが、自分を信じて疑わず、すごいエネルギーで書き続けたと言う。

また、モダニストであって、また、自然や田舎にすごい愛着をもっていると言う。

私は、宮澤賢治は、ヨーロッパ風のカタカナの人名や地名が、詩や童話に出てくるから、ヨーロッパに深いあこがれをもっていると思っていた。しかし、池澤に指摘されてみると、宮澤賢治は、西欧的なものだけでなく、都会的・文化的・文明的なものに強いあこがれをもっている。モダニストという言葉がぴったりだ。

彼の詩や童話に汽車や電信柱がよく出てくる。彼にとって、これは、文明の象徴であって、田舎に進出してきた都会なのである。しかも、田舎の自然を壊す情景とならず、都会的造形物が田舎の自然の中に溶け込んでいる。

宮澤賢治のなかでは、モダニストであることと田舎・自然への愛着とが対立していないように、私は思う。

ところが、池澤は、本書の前半で、もう少し、厳しい目で宮澤賢治をみる。「田舎」と「都会」とは共存できないと考える。

池澤はつぎのように言う。

「田舎と都会のいちばんの違いは、田舎では人は共同体の一員としての資格において生きるのに対し、都会では個人の資格で生きなければならないという点だ。」

「自由にはしかしいつも責任がついてまわる。田舎の共同体の中では一人の失敗は速やかに全体によって補われるが、都会の失敗者には誰にも手を貸してくれない。個人は個人として突き放される。」

しかし、本当にこれは、「田舎」と「都会」との対立なのだろうか。

池澤の言う「都会」とは、体制内で立身出世を目指す「エリート」のことではないか。

私の記憶では、昔の商店街は共同体である。私の母は、少し商品の価格が高くても近所で買い物をしなさい、と言っていた。商店街のみんなは助け合って生活しているからだ。

私は会社に入って、しかも、外資系の会社に入ったが、同僚はみんな仲間だ、と思っていた。競争相手だとは思わなかった。米国の同僚も私と同じ考えだ。研究者や技術者は労働者であって、経営者側の人間ではない。

都会的なものと田舎的なものは共存できる。

それでは、宮澤賢治の抱える本当の問題は何か。

彼は世の中の理不尽や不条理を見ている。農民は天候不順で簡単に借金地獄に落とされる。猟師は好きで熊を殺しているのではないのに、熊の皮と胆を町の旦那に売りに行くと、買いたたかれてしまう。

しかし、それを宮澤賢治は政治的問題として捉えず、自分の個人的な努力の問題としてしまう。そして「自己犠牲」の考えにとらわれてしまう。

「自己犠牲」は必要になるときもあるが、それだけでは政治的問題は解決しない。

笑わないお姫様に、童話「みにくいアヒルの子」をささげる

2019-05-05 21:23:14 | 童話



親愛なる「笑わないお姫様」へ、

あなたのために、童話のおはなしをします。童話は、なにかしらの人間界の真実を書いています。真実は、トゲがありますから、気をつけてください。

例えば、「笑わないお姫様」の童話で、お姫様が笑うのは、自分より愚かな人々を見たからです。そして、愚かな大騒ぎを起こした少年と、お姫様は結婚します。自分が賢くないのではという、お姫様の不安が、愚かな人々の大騒ぎを見て、飛んでいくという話です。人間は愚かでよいという話です。「愚か」は英語で“silly”といいます。

あなたに話したいのは、アンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」です。この童話にもトゲがあります。トゲで傷つかないよう、人を許す心が必要です。

アンデルセンがこの童話を書いたとき、みにくい「アヒルの子」と考えていたか、「みにくいアヒル」の子と考えていたか、の問題があるのです。そう、「みにくい」が「アヒルの子」をさすのか、それとも、「アヒル」をさすのか、ということです。

童話は、自分をみにくいと思っていた「アヒルの子」が、自分がみにくくない、そして、美しいハクチョウだと気づく話です。だから、「みにくいアヒル」が正解なのですが、これはトゲです。

あなたは充分賢いのです。論理的思考も抽象的思考もできます。また、記憶力もあります。容姿も美しいですし、体も健康です。ちゃんと話せますし、買い物もできますし、ひとりで職場まで行けます。あなたには何も問題がありません。

すると、問題はあなたの周りの人の偏見です。あなたに問題があると追いつめる周りの人にこそ問題があるのです。だから、自分に問題があると考える必要がありません。これが、アンデルセンが「みにくいアヒルの子」で言っているメッセージです。

童話「みにくいアヒルの子」では、はじめは、アヒルのお母さんが主人公を必死で、周りから、かばいます。が、そのうちに、周りの偏見にお母さんは負け、偏見にとらわれます。

あなたが大人になるということは、精神的に自立するということです。愚かなご両親を許すということが、精神的に自立するということです。
これから、あなたに起きることは、あなたが人生を賭けるパートナーをみつけることです。そのためには、自分のアンテナを外に広げ、アンテナを鋭敏にしてください。決して、暴力をふるう男を間違ってパートナーとしないでください。

  あなたの味方のわたしから


笑わないプリンセス、なぜ笑わない

2019-04-29 23:07:09 | 童話


童話には、色々なバージョンの笑わないプリンセスの物語がある。童話では、とろくて馬鹿正直な若者が、笑わないプリンセスを笑わす。しかし、焦点が笑わす若者にあって、童話では、なぜプリンセスが笑わないのか、説明しない。

2年前、芥川賞作家の津村記久子の小説をみて心が沈んだ。
主人公(女)は大学を出ている。女友達もいる。しかし、なぜ、生きていることを楽しめないのだろう。

ネットで見つけた2010年の日経BPnetのインタビュー記事を読んで、少し、津村記久子の気持ちがわかった。彼女は、大学を出て、トンデモナイ会社にはいって、すさまじいパワハラを受け、辞めている。

よく自死しなかった、と思う。電通に入った女の子は職場で孤立して自死した。

インタビューで、自分を責めないことが大事だ、と彼女は言う。ひどいことがあったら、「自分のせいじゃない」って逃げるのが良い、ひとのせいにするのがいい、と言う。
私もそう思う。上司が悪い、会社が悪い、社会が悪い、安倍晋三が悪い。

しかし、インタビューで、人とは関わりたくないんだけど、人みたいなものには関わりたい、と彼女は言う。一度、人からいじめられるとなかなか人を好きになる勇気がもてない、とも言う。人が恋しいのだ。

それでも、彼女は外に働きに出ることができるから偉い。地下鉄やバスに乗れるから偉い。

きっと、彼女を笑わす若者が、童話のように、現われるだろう。
その若者はトンデモナイ馬鹿者だが、プリンセスに勇気を与えるのだ。
私は年寄りだからその若者になれないのが残念だ。