感動を与えられる障害者は評価され、与えられない重度の重複障害者は評価されない構造
6日、神奈川県立の知的障害者施設「津久井やまゆり園」(相模原市)の殺傷事件を受けて、園を運営する社会福祉法人「かながわ共同会」(指定管理者)は、入所者の家族を対象に説明会を開いた。また同日、都内では、障害を持つ当事者や支援者らが追悼集会を開いた。
事件から2週間が過ぎた今、事件の影響で、現行制度を見直す動きもある。論点は数多いが、重度の重複障害者の介助の困難さは多くは語られていない。はたしてどのようなものなのだろうか?
■意思疎通困難な障害者 感情が読み取れず…
「障害者は死んだほうがいい」。19人を刺殺した植松聖容疑者は周囲にこう漏らしていた。植松容疑者は、衆議院議長あての手紙にもあるように、特に重複障害者は「不幸を作ることしかできない」と存在を否定している。しかし、これは植松容疑者なりの経験からきている発言だ。手紙にもあるように、<保護者が絶縁状態にあることも珍しくありません>などの認識からきたものと思われる。
筆者は、重複障害者が入所している施設で何度かボランティアをしたことがある。だが、施設の中でも比較的意思疎通ができる人物の担当になった。一方で、ぱっと出向いたボランティアの私にはまったく表情が読み取れず、コミュニケーションが取れない方もいた。スタッフたちが一生懸命話しかけることで、やっと表情が変わったのを覚えている。しかし、それがどんな感情から出てくる表情なのかは想像できなかった。
「障害者の自立」を支えることは教育や福祉の現場では求められているが、重複障害を持っている場合は困難が伴う。「国立特別支援教育総合研究所」によると、以下のように、困難を整理している。
1)重複している障害一つ一つがもたらす困難
2)重複した場合に追加・増幅される困難
3)重複障害がもたらす困難を理解してないために、不適切なかかわりを周囲がしてしまうためにもたらせる困難
そして、教育や福祉の現場では、障害をもつ子どもに対して、3)の困難が起きてしまうことがある。その理由は以下の通りだ。
1)一つの障害についてのみの知識及び理解だけで教育を行ってしまう
2)複数の障害についての知識はあるが、障害が重複した場合に追加・増幅される困難を理解してない
3)生活すべてにおいて介助を必要する状態であり、かつ本人が周囲に伝わりにくい表現方法しかもっていない場合、潜在能力は極めて低く見なされがちで、自発的、自立的成長を阻んでしまう
これは、視点としては大人の障害者に対しても同じことが言えるだろう。大人の場合、障害の重複の度合いによっては、これらの問題に加えて介助者の体力面も問題となる。
■12年前から指摘されていた「職員の質低下」
さて、「津久井やまゆり園」は神奈川県が1964年に設置し、2005年度から指定管理者制度を導入して社会福祉法人「かながわ共同会」が運営している。つまり現在は公設民営の施設なのだが、これは2003年に、小泉純一郎内閣のときの「聖域なき構造改革」によってできた運営方法だった。この時の改革によって、それまで原則的に公が運営していた施設における一部の分野は、民間で運営することが可能になったのだ。もちろん、運営費を抑えることが目的だ。だが、その余波は受けざるを得ない。
そのことについては、12年以上前の2004年3月に財団法人日本障害者リハビリテーション協会の「重度・重複障害に関する調査研究事業報告書」(2004年3月)が指摘している。
<今後、職員数の不足を、非常勤化や常勤換算法などを用いて改善しようとの取り組みが増えることが予想されるが、その場合は職員の質の低下を防ぐ必要がある>
……ということだ。植松容疑者も、最初は非常勤職員として働き始めている。
植松容疑者は手紙で<今までの人生設計では、大学で取得した小学校教諭免許と現在勤務している障害者施設での経験を生かし、特別支援学校の教員を目指していました>と書いているが、これは、はじめから重複障害の介助を意識して働いていたわけではないことを物語っているのではないだろうか? つまり、重度の重複障害者に関する知識量の少なさが、現実を受け入れられない精神状態に至った可能性があったかもしれないということだ。
■12年前から指摘されていた「職員の質低下」
植松容疑者は手紙で、<保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳>と書いていたが、保護者やスタッフが様々な方法で障害者の意志を把握しようとするその過程では、そう感じても不思議ではない光景があったかもしれない。
そうした洞察がなぜ殺害に向かったのかはわからないが、事件が「24時間テレビ」や「パラリンピック」前に起きたことも、何か因縁があるのではないだろうか。これらは、感動を与えられる障害者は評価され、与えられない障害者は評価されないといった構造にあり、何らかのハンディがあっても克服し、見ている人たちに感動を与えるような障害者の存在をクローズアップさせる番組だ。
NHKの「バリバラ」でも、この事件の緊急特集が組まれたが、出演する障害者はコミュニケケーション可能な存在で、重度の重複障害者ではない。
「バリバラ」で相談支援専門員の宮崎充弘さんの次の言葉をきちんと考えないといけないと思う。
「(容疑者が衆議院議長あてに書いた手紙の)あの文言を見ると、家族の大変さ、支援者の疲弊感……あの言葉が出た時に、これって我々も感じることってあるよねって。そういう意味では、確かに(事件は)猟奇的な部分はありますけど、その前の動機的な部分でいうと、他人事ではないというようなね。僕たち職員としては、彼ら(重度の障害者)が社会で活躍できる人なんだっていうことを立証する役割を持っていると思ってます。そのためには自分での表現が苦手な方であったとしても、彼らがどう思うかというのをどう聞くか、僕たちは考えていかなければならない」
「障害の有無で評価してはいけない」というような単純な構造ではない。こうした問題について、メディアを通じて障害当事者たちが様々な意見を出しているが、彼らはコミュニケーション可能な人たちだ。重度の重複障害者の当事者たちの“本当の主張”は、まだどこにも出ていない。
tocana 8月11日