検査入院及びその後の勤務の関係で少なくとも一週間は更新できないでしょう。
そこで、しつこいですが、もう一度繰り返させてください。
『魏志倭人伝』は247年の戦争と279年の内乱を一緒くたにしました。
247年の戦争は北九州で起こったものです。(スサノヲと奴国・卑弥呼、卑弥弓呼の戦い)
統一国家に向う際の最も重要で凄惨な戦争となりました。
279年の戦争は、纒向(まきむく)あたりの、国が一つに固まりつつあった途上の内乱のようなものです。
この二つの戦争は地域も違い、年代も違い、意味合いも全く違う戦争です。
その二つの戦争で同じだったことは、たった一つ、卑弥呼と呼ばれた女性が亡くなったということだけです。
しかし、当たり前ですが、この二つの戦争で亡くなった卑弥呼は別人です。
(最後から二番目の卑弥呼と最後の卑弥呼トヨです)
ですから、卑弥呼が少なくとも二人いたことを知らなかった『魏志倭人伝』は247年の北九州での戦争を「ヤマト」で起きた279年の内乱と合体させたのです。
『魏志倭人伝』は、年代の範囲として記述すべきではなかった279年の戦争を247年の戦争と合体させてしまいました。
そして架空の『倭国大乱』を創りだします。
だから、「記・紀」では706年の難波~斑鳩の内乱を660年の百済滅亡に際して起きた九州での戦争と合体させ、さらに、247年の九州の戦争と706年の内乱を合体させ、紀元前660年ごろの神武東征を創りだしたのです。(さらに考える必要がありますけれど、・・)
ところで、邪馬臺国(邪馬台国)がどこかという論争はばかばかしいものです。
何度もいいますが、邪馬臺国(邪馬台国)は「ヤマト」国としか読みようがないのです。
『魏志倭人伝』では、奴国が邪馬臺国の最も遠い国になっているのがその証拠です。
「記・紀」も邪馬臺国を「ヤマト」国と読み、『神武東征』の上陸地点を大阪・難波にしているのです。
だからこそ、東西を入れ替えて記述しているのです。
邪馬臺国が九州だったなら、東西を入れ替える必要はありません。
ただ単に移動したと書けば済みます。
しかし、奴国と邪馬臺国は東西に離れていました。
邪馬臺国が西から東に移動したものでもありません。
卑弥呼トヨ一行は既に「ヤマト国」と呼ばれていた土地に移動してきた、と考えた方が無理がありません。
どのくらいの人数で移動したのかわかりませんが、一から国づくりはありえないでしょう。
須磨・明石で冷たい仕打ちにあって、なぜ纒向(まきむく)に向ったのかわかりませんでしたが、纒向に既にある程度の基盤があったと考えれば合点がいきます。(NHKの月曜日のクローズアップ現代を見ると可能性大)
そこで卑弥呼トヨは力を発揮したのでしょう。
一緒について来た人たちも、農業特に米作りや製鉄に技術的に優れていたとなれば、温暖化に伴って発展するのは当然です。(天文もありです)
その温暖化も卑弥呼トヨが太陽神だからと考えられたはずです。
最初は「宇佐から来た神」で「(稲羽の素)ウサギ」とさげすまれたかもしれませんが、後に敵対者からは「ヤマタノオロチ」こと「大和の大蛇」と恐れられるようになるのです。
ですから、『魏志倭人伝』が247年と279年の戦争を合体させ、「ヤマト」国の事件として記述していると、大和朝廷(だけでなく他のすべての日本人たちも)は理解し、『魏志倭人伝』は間違っていると受け取っていたのです。
邪馬臺国と奴国の関係がわからなかったのは『魏志倭人伝』が書かれたころの中国人です。
そして、それを知らなかったとしても、中国には何の問題もありません。
それを後世の日本人が邪馬臺国・ヤマタイコクは何処だ、なんていい出したもんですから、何もわからなくなってしまったのです。
「ヤマタイコク」をロマンだなんて言っちゃいけません。
(月曜日のクローズアップ現代ではロマンと繰り返していました)
それはロマンではなく「ギマン・欺瞞」です。
「ヤマタイコク」は間違いです。
100年後の人が我々を「トンマ」といっていなければいいのですが、言われたってしょうがありません。
・・・・・
石上神宮と石見物部神社を結ぶと、もしかすると難波宮を通るのではないかと考えました。
しかし、四天王寺の近くを通りましたが、難波宮跡からはだいぶ離れていました。
出雲大社-石上神宮が大坂城を通るとはいえ、難波宮跡の近くでしたから当たり前でした。
石上神宮-出雲大社、石見・物部神社
上記の線と難波宮跡、四天王寺、住吉大社
上記の線と斑鳩
そこで、しつこいですが、もう一度繰り返させてください。
『魏志倭人伝』は247年の戦争と279年の内乱を一緒くたにしました。
247年の戦争は北九州で起こったものです。(スサノヲと奴国・卑弥呼、卑弥弓呼の戦い)
統一国家に向う際の最も重要で凄惨な戦争となりました。
279年の戦争は、纒向(まきむく)あたりの、国が一つに固まりつつあった途上の内乱のようなものです。
この二つの戦争は地域も違い、年代も違い、意味合いも全く違う戦争です。
その二つの戦争で同じだったことは、たった一つ、卑弥呼と呼ばれた女性が亡くなったということだけです。
しかし、当たり前ですが、この二つの戦争で亡くなった卑弥呼は別人です。
(最後から二番目の卑弥呼と最後の卑弥呼トヨです)
ですから、卑弥呼が少なくとも二人いたことを知らなかった『魏志倭人伝』は247年の北九州での戦争を「ヤマト」で起きた279年の内乱と合体させたのです。
『魏志倭人伝』は、年代の範囲として記述すべきではなかった279年の戦争を247年の戦争と合体させてしまいました。
そして架空の『倭国大乱』を創りだします。
だから、「記・紀」では706年の難波~斑鳩の内乱を660年の百済滅亡に際して起きた九州での戦争と合体させ、さらに、247年の九州の戦争と706年の内乱を合体させ、紀元前660年ごろの神武東征を創りだしたのです。(さらに考える必要がありますけれど、・・)
ところで、邪馬臺国(邪馬台国)がどこかという論争はばかばかしいものです。
何度もいいますが、邪馬臺国(邪馬台国)は「ヤマト」国としか読みようがないのです。
『魏志倭人伝』では、奴国が邪馬臺国の最も遠い国になっているのがその証拠です。
「記・紀」も邪馬臺国を「ヤマト」国と読み、『神武東征』の上陸地点を大阪・難波にしているのです。
だからこそ、東西を入れ替えて記述しているのです。
邪馬臺国が九州だったなら、東西を入れ替える必要はありません。
ただ単に移動したと書けば済みます。
しかし、奴国と邪馬臺国は東西に離れていました。
邪馬臺国が西から東に移動したものでもありません。
卑弥呼トヨ一行は既に「ヤマト国」と呼ばれていた土地に移動してきた、と考えた方が無理がありません。
どのくらいの人数で移動したのかわかりませんが、一から国づくりはありえないでしょう。
須磨・明石で冷たい仕打ちにあって、なぜ纒向(まきむく)に向ったのかわかりませんでしたが、纒向に既にある程度の基盤があったと考えれば合点がいきます。(NHKの月曜日のクローズアップ現代を見ると可能性大)
そこで卑弥呼トヨは力を発揮したのでしょう。
一緒について来た人たちも、農業特に米作りや製鉄に技術的に優れていたとなれば、温暖化に伴って発展するのは当然です。(天文もありです)
その温暖化も卑弥呼トヨが太陽神だからと考えられたはずです。
最初は「宇佐から来た神」で「(稲羽の素)ウサギ」とさげすまれたかもしれませんが、後に敵対者からは「ヤマタノオロチ」こと「大和の大蛇」と恐れられるようになるのです。
ですから、『魏志倭人伝』が247年と279年の戦争を合体させ、「ヤマト」国の事件として記述していると、大和朝廷(だけでなく他のすべての日本人たちも)は理解し、『魏志倭人伝』は間違っていると受け取っていたのです。
邪馬臺国と奴国の関係がわからなかったのは『魏志倭人伝』が書かれたころの中国人です。
そして、それを知らなかったとしても、中国には何の問題もありません。
それを後世の日本人が邪馬臺国・ヤマタイコクは何処だ、なんていい出したもんですから、何もわからなくなってしまったのです。
「ヤマタイコク」をロマンだなんて言っちゃいけません。
(月曜日のクローズアップ現代ではロマンと繰り返していました)
それはロマンではなく「ギマン・欺瞞」です。
「ヤマタイコク」は間違いです。
100年後の人が我々を「トンマ」といっていなければいいのですが、言われたってしょうがありません。
・・・・・
石上神宮と石見物部神社を結ぶと、もしかすると難波宮を通るのではないかと考えました。
しかし、四天王寺の近くを通りましたが、難波宮跡からはだいぶ離れていました。
出雲大社-石上神宮が大坂城を通るとはいえ、難波宮跡の近くでしたから当たり前でした。
石上神宮-出雲大社、石見・物部神社
上記の線と難波宮跡、四天王寺、住吉大社
上記の線と斑鳩