古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

ドラマ・ケベク(階伯)と日本書紀と旧約聖書

2013年04月10日 12時21分18秒 | Weblog
韓国時代劇・ケベクを視聴しています。4/10(水)第22回。36回まで。
この前、つい、この先のあらすじをネットで見てしまったところ、驚きの筋に
『じぇ、じぇ、じぇ。』(NHK朝の連ドラ、「あまちゃん」の驚きの言葉。)でした。
細かい内容はご勘弁いただくとして、ドラマでは、ケベク(階伯)とウンゴ(恩古)は相思相愛でありながら、ウィジャ(義慈王)もウンゴ(恩古)を愛していたために、ケベク(階伯)を辺境の戦場に送り、その隙にウンゴ(恩古)を妃としてしまう、という感じです。
(まだ、その場面を見ていませんが)

同じ話は「日本書紀」にあります。
また、思い起こせば「旧約聖書」にもありました。

《雄略天皇七年(癸卯四六三)是歳》
天皇傾耳。遥聴、而心悦焉。便欲自求稚媛為女御。拝田狭、為任那国司
「推古朝こそ原帝紀成立期」p35に要約されていました。(ここをみたばかりでしたから気づいたのですが。)
《雄略天皇が田狭の妻の美しさに横恋慕して田狭を任那に追いやり、その間に生まれたのが星河皇子であるとか、弟君の妻が愛国心から夫を殺したとか・・・》

ウィキペディア(Wikipedia)では
《新羅・唐連合軍に滅ぼされた百済の実在の人物・階伯を主人公として創作され、「三国史記」や「日本書紀」の記述をベースにしている。》とありますから、
この部分は「日本書紀」を参考にしたとも考えられます。

ですが、ウィキペディア(Wikipedia)の思い込みかもしれません。
「日本書紀」の方が百済の話を書き込んだ可能性だってあるはずです。
「ソドンヨ」では、日本で起きた話が、そしてそれは日本では消えている話で、韓国ドラマで甦っていたのではないかと感じました。
(大津皇子が即位のために伊勢に禊に行った帰り道で高市皇子に殺されたという話(私の想像)が朝鮮で阿佐太子の禊の帰り、即位直前に殺されている話になっているのではないかと考えました。
・・まぁ、とんでもない思いつきなんでしょうが)

この、部下の妻を横取りする話は「旧約聖書」にもあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87
ダビデ王
ダビデは晩年、家臣ウリヤ (ヒッタイト)(英語版)の妻であるバト・シェバを見初め、彼女を妻にするために謀略によってウリヤを戦死させた。・・・・
ダビデは自らの罪を悔いた。神は罰として、バト・シェバから生まれた子供の命を奪った。次にバト・シェバから生まれた子供が次の王になるソロモンである。

ダビデとバト・シェバの最初の子は神に命を奪われ、二番目の子がソロモンで、次の王になるようです。
そこが重要なのでしょうか?

ネットで検索したところウンゴ(恩古)が「日本書紀」に出てくるそうです。
http://www.j-texts.com/jodai/shoki26.html
《斉明天皇六年(六六〇)十月》
〈百済王義慈。其妻恩古。其子隆等。其臣佐平千福国。弁成。孫登等。凡五十余。秋於七月十三日。為蘇将軍所捉。而送去於唐国。蓋是無故持兵之徴乎。〉而百流国遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百済国遣侍天朝王子豊璋。将為国主。云云。詔曰。》

「百済王義慈。其妻恩古。其子隆等。」や臣下は捕らえられ唐に連行された。
ということで、鬼室福信は王子豊璋を新たに百済国王に迎えたいと、日本に報告したようです。(前後を見るとそうなるようです)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E6%85%88%E7%8E%8B
義慈王
高句麗と共同し新羅を攻めていたが、逆に唐・新羅同盟を成立させてしまい、660年に唐に滅ぼされた。孝(徐孝)、泰(徐泰)、隆(徐隆)、演(徐演)、豊(徐豊璋)、勇(徐勇)[1](百済王善光(徐善光))の6人の王子の名が確認できるほか、庶子41人がいた[2]。

百済の最後の王・義慈王には6人の王子がいるようですが、「日本書紀」には「隆」と「豊璋」だけが出ているのではないでしょうか。
で、もしそうだとすると、「隆」は神に召され、豊璋がソロモンということで王になります。
(白村江の敗戦で豊璋は高句麗方面に逃亡したことになっていますが、実は日本に帰還して、近江で亡命政権を樹立していた、ということを暗示しているのでしょうか。そういうことで、「日本書紀」は旧約聖書の話を持ってきたのでしょうか。少なくとも、何度もいっているように「日本書紀」の方では旧約聖書を知っていたということは確かでしょう。)

以下、余計なことです。
そこで、「日本書紀」にウィジャ(義慈王)とかウンゴ(恩古)とかケベク(階伯)に似ている名前はないかと、無理で無意味な探索をしました。
「推古朝こそ原帝紀成立期」p35
《謀反した星河皇子と共に死んだとする城丘前来目(きのおかざきのくめ)とは、その前の雄略九年に新羅と戦って死んだ紀岡崎来目(きのおかざきのくめ)と同一人物であり、・・・》

この「来目」は「ケベク(階伯)」と似てないでしょうか。
ハングルでは「계백」ですが、最後の백のパッチムのkは、日本人には難しいというか日本語はこういう終わり方をしないというか。
日本語的には「ケベッ」じゃないでしょうか。
(日本語には必ず母音が付きますから)
また
안녕하십니까?(アンニョンハシムニカ)の십のパッチムはpですが、鼻音化してmに変わります。
ですから、逆に「来目」の「目(ME)」のMがPに変わってもいいじゃないか。
(「계백」のPがパッチムではありませんから、そんなことはおこらないのでしょうが、・・。)
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