古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

菟道磯津貝皇女とは誰か②広姫と豊御食炊屋姫

2006年10月14日 23時44分32秒 | Weblog
さて問題は、敏達天皇妃の広姫と豊御食炊屋姫(推古)の皇女のそれぞれに同名の「菟道磯津貝皇女(うぢのしつかひのひめみこ)」と呼ばれる方がいることでした。
広姫の母方の名前は出ていませんが、父は息長眞手王(おきながのまてのおほきみ)という方です。
豊御食炊屋姫(推古)の母は堅塩媛で堅塩媛の父は蘇我稲目です。
ですから、広姫と豊御食炊屋姫と血縁関係はあるようには見えません。
そして、敏達天皇の最初の皇后は広姫で、広姫の死後、豊御食炊屋姫が二代目の皇后といて迎えられます。

さて、敏達天皇は天武天皇の投影だったのですが、広姫と豊御食炊屋姫のところが違っていました。

天武天皇の正妻という立場では、姉の大田皇女がまずいて、次に皇后として、妹の鵜野讃良皇女(持統)が立ちます。

ですから、敏達が天武の投影ならば、広姫と豊御食炊屋姫は、天智天皇の皇女の大田皇女と鵜野讃良皇女(持統)という姉妹でなければなりません。

姉妹であったという残影が、菟道磯津貝皇女ではないのでしょうか。
系図で見ると、広姫と豊御食炊屋姫尊はそれぞれ別個の二系統に別れています。息長氏系と蘇我氏系(という)らしいです。
別々の系統に分けるには、姉妹であってはなりません。

しかし、姉妹でなければなりません。
その時、菟道磯津貝皇女は彼女たちの娘ではなく、逆に母親でなければなりません。
母・娘を逆転させるしか菟道磯津貝皇女を登場させられないのです。
だいたい、あの方たちの能力からして、広姫と豊御食炊屋姫に同名の皇女がいるなんていう馬鹿な間違いをするわけがないのです。
こんな所で間違っていたならば、万世一系なんてとてもいえないのです。

≪「魏志倭人伝」では「卑弥呼と卑弥弓呼」は姉・弟でありながら、敵になっていました。
「記・紀」ではとっくに、親子の逆転はありました。≫

 大田皇女と鵜野讃良皇女の母親、天智天皇の妃・蘇我遠智娘が菟道磯津貝皇女でなければなりません。

 蘇我遠智娘(そがのをちのいらつめ)の「をち」は「大市・おおち・おろち」からきているものと考えています。
 大田皇女の、天智6年の陵の「御路・おほち」(巻4・p38)もそのはずです。


 前回の説明では豊御食炊屋姫(推古)は元明天皇だと規定しましたから、おかしいのではないかと思われるかもしれません。
しかし、推古天皇の摂政として厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)が立ち、その厩戸豊聡耳皇子が用明天皇と穴穂部間人皇女との御子という場合に、推古天皇は元明天皇なのです。593年が推古元年という場合も、この推古天皇は元明天皇です。(707-593=114)

「魏志倭人伝」では別の人物が同一人物にされ、同一の人物が別々の人物になっていました。

 ですから推古天皇は、何人かの人物が投影されています。
 その場合、推古天皇・卑弥呼が誰に特定されるかは、その他の人物との関係性を見ることによってしか特定できないのです。
 
 説明がわかりにくいかもしれません。やり直します。
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